豹紋もどき

       *

 さつきはまだ怒っている。
 少なくとも雪の目にはそう見える。
 無理もない。雪は彼女に少しは同情する。
 さつきには十三秒先の声が聴こえない。いくら自分の義妹――魚津クミが、元教師の下井津悠に連れていかれたとヒロに騒がれても、それを信じられる根拠などなに一つ持たないないのだ。
 それでも、さつきはヒロの剣幕に押されて、訳も分からず町中を走り回っている。
「なんであたしがこんな事しなきゃいけないのよ!」
 彼女が苛立って、声を荒げてしまうのも無理はない。
「ちょっと黙って!」
 ヒロはさつきの手を握ったまま大声で叫ぶ。彼女を気遣うような余裕はなさそうだ。
「もぉ、痛いって! そんなに強く引っ張んないでよ!」
 さつきは喚きながらも、手を引かれるままにヒロについて行く。彼女にしても、まだ六限目の授業が残っているにも拘らず、学校を抜け出してきたのだ。
 やはり本心では、義妹の安否を心配しているのか。
「多分、こっちだ!」
 ヒロはぐいと彼女を引っ張って、足早にズンズンと進んでいく。
 雪も二人の背中を追いかける。
 学校を出てから、住宅街に入る。そこでヒロは一軒のコンビニエンスストアの中を覗き込むような仕草を見せた。ただし、彼は店内の様子を一瞥しただけで、直ぐに頭を振って通り過ぎた。
 ヒロに倣って、雪も店内に目を向けたが、そこには下井津やクミの姿はないようだった。
 ヒロは迷いなく歩みを進める。
 頭の中で響いた十三秒先の声だけが、クミを探す手がかりの筈だ。それでもその声を聴いただけで、十三秒先に声を出した人がどこにいるのかなんて分かる筈もない。少なくとも、雪にはクミの声がした場所など検討もつかない。
 声は声でしかない。映像ではないのだ。周囲の物音が聴こえれば、なんとか場所の特定もできるのかもしれない。だけど、雪には声と共に周囲の物音が聴こえた事はなかった。
 ひょっとしたら、ヒロだけにはそんな物音さえも聴こえているのか?
 そうでなくては、今の彼の足取りは説明がつきそうにない。
 いや。それにしても、と雪は思う。
 たとえ周囲の物音が聴こえていたとしても、それだけで本当にその場所が特定できるのか?
 例えば、コンビニの店内の音とスーパーの中での音の違いを聴き分けられるだろうか。店員が客を迎える声に違いがあったとして、果たしてそんなものを瞬時に特定して、見分ける事が可能なのか。
 雪はチラとヒロの横顔を見る。
 彼の頬から汗が流れている。それを拭う事もせず、ヒロはただ前を見つめて、先を急いでいる。
 ひょっとしたら、ヒロは音だけ(・・・)で判断している訳ではないのかもしれない。
 そう。
 もっとシンプルに考えるのなら――。
「着いたよ」ヒロは肩で息をしながら言う。「あの二人はここにいる。間違いない……」
 そこは駅前のファミリーレストランだった。
 ヒロは入り口のガラスドアの前に立ってじっと中の様子を窺っている。
 このレストランは入り口から奥に向かって、ほとんど長方形の空間が伸びている。そのせいか、このドア越しには店内の客席の様子は良く分からない。
 それなのに、どうしてヒロはここに二人がいると確信を持って言えるのか。
 答え合わせをするのなら、考えるよりも店内に入った方が早い。
 すう、とヒロは深く息を吸い込んでからドアを開いて店内に入った。
 さつきと雪も彼の後に続く。
 レジの前にいた中年のウェイトレスがスッと近づいてくる。
「三名さまですね」
 ウェイトレスはこちらを確認する。瞬間、彼女が胡乱な目を向けたのは、ヒロやさつき、それに雪にしても感染症対策の基本を失念していたからだ。
「失礼ですが、お客さま。店内ではマスクを――」
 彼女がそう言い終わらないうちに、さつきが跳ねた。
 雪の目には、それは美しいバレエの跳躍のように見えた。
 しかし実際は素早く短いステップを何度か踏んだだけで、さつきはあっという間に店内の奥にある四人掛けのボックス席にたどり着いていた。
「ざっけんじゃねぇ!」
 さつきが手を伸ばす。そこに座っていた男の襟首をむんずと掴み上げた。
「この変態がぁ!」
「――――っ!」
 下井津悠が目を丸くして、腰を浮かす。
 さつきは両下井津の首を両手で捻じ上げている。彼女の細い手に考えられないくらいの力が込められている。
「お、お姉ちゃん……」
 下井津の向かい側の席に、魚津クミが震えながら座っていた。
 クミの目の前に、プリン・アラモードの皿が置いてある。プリンには口をつけた跡はどこにもない。見知らぬ男の前では、大好物のプリンさえもとても喉を通るような気分ではなかったのだろう。
「クミちゃん、大丈夫?」
 さつきに代わって、ヒロがクミに声をかける。
 雪もヒロの後ろから彼女の顔を伺う。
「……うん」とクミは涙目になって頷いた。
「お客さま!」
 ウェイトレスが慌てて近づいてきた。
「なにをなさって――」
「あんたなんで警察に通報しないの! この変態はあたしの妹を誘拐したのよ! この子になんかあったら、あんたどうやって責任とるの!」
「お客さま、落ち着いて――」
「るっさいっ! 黙れっ!」
 さつきは大声で叫んでから、手に力を込めた。
 下井津の首がギュッと締め上げられる。次の瞬間、彼は白目になって、「ぐぇ」と情けない声を出して、口から泡を吹き出した。どろりとした唾液が白い手の上を流れても、さつきは全く力を緩めなかった。

 その日、雪が下井津悠の姿を最後に見たのは、彼が警察官に囲まれてパトカーに乗せられた時だった。
 警察署の中では、さつき、クミ、それにヒロと雪の四人は、下井津とは別の部屋に連れて行かれた。殺風景な部屋の中には、簡素な机とパイプ椅子、それに古びた棚しか置かれていない。
 テーブルの上には紙パックのジュースが四つ並べられていた。
 白いマスクをつけた婦人警官が「どうぞ」と勧めてくれると、直ぐにさつきがクミにリンゴジュースを取ってやった。紙パックのジュースと共に、ヒロたちにも白いマスクが配られた。流石にここでは感染症対策をサボる訳にはいかず、さつきもヒロも素直にマスクをつけた。もちろん雪も彼らに習ってマスクをつける。
 その後、男性の警察官が室内に入ってくると、婦人警官と共にこちらを質問攻めにした。下井津の行動の裏づけを取理、事件の調書を作るためのものであるらしく、彼らの質問の大半は、クミに向けられたものだった。
 しかし、身のすくむような恐怖を経験したばかりの小学五年生の女の子が、ハキハキと答えられる筈もない。彼女は泣きながら、鼻を啜りながら、それでも義姉の腕にギュッとしがみついたまま、ボソボソと話し始めた。
 どうやら最近のクミは、小学校の帰りにさつきの学校まで立ち寄っていたらしい。学校の終わったさつきの後をこっそりつけて、彼女の通うバレエ教室まで行っていたと言う。バレエ教室の窓越しに、さつきがレッスンを受ける様子をしばらく見学して、自分の家に帰るのが日課になっていた。
 さつきを待ち構えるために、クミは校門の影でじっとしていた。そうしているうちに、下井津悠の目に止まってしまったのだろう。彼は早川恵の未練を断ち切れず、彼女にストーカー行為を繰り返しており、頻繁に学校まで足を運んでいたようだった。
 下井津はつい最近、塾講師を辞めていた。塾に通う小学生の女子に性的ないたずらを繰り返していたらしく、家族から警察に被害届を出されてしまい、退職を迫られたようだった。そんな事情もあって、警察では今回のクミの一件を下井津の余罪の一つとして捉えていた。
 しばらくしてから、さつきとクミの母親が姿を見せた。彼女は、かつて雪が病室で会った事のある魚津美樹――ではない。さつきの実母であり、クミにとっては義母だった。
 目に涙を浮かべて部屋に入ってきた彼女は、クミの姿を目にするとなにも言わずに胸の中に抱いた。
 クミも大泣きしていた。泣きながら「お姉ちゃんが、助けてくれた……」と小さな声で漏らしていた。