*
《見つけた、ぼくの大好きな――》
その十三秒先の声を聴いた時、ヒロはグラウンドにいた。
いや。正確にはその片隅でぼんやりと座っていたのだ。
高等部二年四組の午後の最初の授業は、三組との合同授業の体育だった。
この日、男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館の中でバスケットボールの練習をする事になっていた。練習とは言っても、男女ともいくつかのグループに分かれて、ショートゲームを繰り返すだけだ。
男子サッカーの場合は、四班に分かれて、二班がゲームを行い、残りの二班がグラウンドの端でそれを見学をするスタイルだった。
その時のヒロは見学組だった。彼も他の男子たちと同じようにグラウンドを望む階段に腰を下ろしていた。
そこで彼は下井津悠の声を聴いたのだ。
下井津の声。低音の声に暗い感情がこびりついているようで、耳を塞ぎたくなるような不快感を覚えた。気がつけば、ヒロの剥き出しの腕に鳥肌が立っていた。
彼は思わず立ち上がる。
下井津は十三秒後になにを見つけるのか。
もちろん、彼がなにを見つけようが、ヒロには関係がない。関係がないと思ってはいるのだけど、下井津の暗い声が頭から離れない。その声が不安を掻き立てる。直ぐに彼を見つけないと、取り返しのつかない悲劇が起こってしまう――そんな嫌な予感がした。
この感覚は、かつて経験したことがあるものだ。
それはいつだったか。もう少しで思い出せそうだが、まだ頭の中に靄がかかって、はっきりとしない。
頬に一筋の汗が流れる。自分の汗がやけに冷たいと感じた。ヘンだ。やけに気持ちが悪い。吐きそうになってくる。
そうして、ようやく思い出した。
あれは、そう。
確か五月の連休の最中だった。
あの時、ヒロはどこにいたのか。
父が家族三人で旅行に行こうと言い出したのだ。訪れたのは山間部の温泉旅館だった。父の会社が再開発を行ったおかげで、建物はまだ真新しい。渓谷沿いに絶景を楽しめる露天風呂まで備えていた――。
いや。そうじゃない。
そこでなにを目にしたのか。それが重要なのだ。
目の前で、火柱が暗闇を焦がすように立ち上がっていた。
五月上旬。とは言え、山間部の未明の空気は冷たい。その冷気を払うように炎が踊っていた。踊り狂う炎は、やがて建物と共に父を焼き払い、母の心を打ち砕いた。
その時、初めてヒロは十三秒先の世界を知るようになった。
炎が踊る場所。ヒロの父が再建した温泉旅館の敷地は、かつてつがいの蝶――ヒョウモンモドキたちの楽園であり、神域だったと言われていた。その場所で、ヒロは両親――つがいの生贄を捧げた事で、果たしてこんな奇妙な現象に悩まされるようになったのだろうか。
十三秒先の世界。その声は、蝶の鳴き声。つまりそこは、蝶が鳴く場所でもあるのかもしれない。そんな世界に誘われて、禁忌を犯そうとする罪人の未来を変えろと、蝶たちが鳴きながら――あるいは泣きながら、迫ってくるようだ。禁断の神域を土足で汚した罪は簡単には償えない。
――下井津悠。
彼のつがいの相手は、中等部三年年一組の早川恵だった。
ならば、今も下井津が求めているのは恵なのだろうか。
十三秒が経過した。
果たして下井津はなにを見つけたのか。
恵はまだ中等部の教室で授業を受けている。まさか退職した下井津が教室まで入り込んで、彼女に会いにきたのだろうか。
当初は恵が下井津に夢中になっていた筈だ。ヒロは雪と共にホテルに入る二人の姿を目にした。あの時も恵が自ら望んで一線を越えたのだろう。下井津はどこまでも受け身のようだった。
では、なぜ彼は今になって恵に執着するのか。校内で噂されたように、下井津は小児性愛者だったからか。
それは、まるであの男と同じではないか。
ヒロはギュッと唇を噛み締める。血の味がしたのは、唇を噛み切ったためだろうか。動悸が速くなる。目眩がしそうだった。
次の瞬間。
蝶たちの鳴き声が、ヒロの頭の中で弾けた。
《……お姉ちゃん》
ヒロは息を飲んだ。
スッと立ち上がると、短いコンクリートの階段を一気に駆け上がった。そのまま体育館のドアに取りつく。そして思いきりその金属のドアをスライドさせた。
ガンッ、と硬質の音が室内に響き渡る。
きゃあっ! と甲高い悲鳴を上げたのは、女性の体育教師ではなかったか。彼女はギョッとした顔になっている。バスケットボールの練習をしていた女子たちも驚いた顔をこちらに向けている。
――な、なに?
――アレ、鏑木でしょ。
――なんか、必死じゃない。ヤバそうな顔してる。
女子たちが騒ぎ出す。
ヒロは気にせず、周囲を見回した。コートの中にはいない。ならば、とコートの外に目を向けた時に、ようやくその少女を見つけた。
ショートボブの小柄な少女が、膝を抱えて座っている。
「魚津っ!」とヒロは思わず叫んだ。少し息が上がる。
「な、なんなの……」
魚津さつきは腰を引いて、手をついたまま少し後ろに下がってしまった。ずいぶん不恰好だが、この気の強い同級生が怯えている。どうやら、今のヒロはよほど酷い顔になっているのかもしれない。
構わず、彼は叫ぶ。
「クミちゃんが危ない!」
さつきは目を丸くして、その場で固まってしまった。
《見つけた、ぼくの大好きな――》
その十三秒先の声を聴いた時、ヒロはグラウンドにいた。
いや。正確にはその片隅でぼんやりと座っていたのだ。
高等部二年四組の午後の最初の授業は、三組との合同授業の体育だった。
この日、男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館の中でバスケットボールの練習をする事になっていた。練習とは言っても、男女ともいくつかのグループに分かれて、ショートゲームを繰り返すだけだ。
男子サッカーの場合は、四班に分かれて、二班がゲームを行い、残りの二班がグラウンドの端でそれを見学をするスタイルだった。
その時のヒロは見学組だった。彼も他の男子たちと同じようにグラウンドを望む階段に腰を下ろしていた。
そこで彼は下井津悠の声を聴いたのだ。
下井津の声。低音の声に暗い感情がこびりついているようで、耳を塞ぎたくなるような不快感を覚えた。気がつけば、ヒロの剥き出しの腕に鳥肌が立っていた。
彼は思わず立ち上がる。
下井津は十三秒後になにを見つけるのか。
もちろん、彼がなにを見つけようが、ヒロには関係がない。関係がないと思ってはいるのだけど、下井津の暗い声が頭から離れない。その声が不安を掻き立てる。直ぐに彼を見つけないと、取り返しのつかない悲劇が起こってしまう――そんな嫌な予感がした。
この感覚は、かつて経験したことがあるものだ。
それはいつだったか。もう少しで思い出せそうだが、まだ頭の中に靄がかかって、はっきりとしない。
頬に一筋の汗が流れる。自分の汗がやけに冷たいと感じた。ヘンだ。やけに気持ちが悪い。吐きそうになってくる。
そうして、ようやく思い出した。
あれは、そう。
確か五月の連休の最中だった。
あの時、ヒロはどこにいたのか。
父が家族三人で旅行に行こうと言い出したのだ。訪れたのは山間部の温泉旅館だった。父の会社が再開発を行ったおかげで、建物はまだ真新しい。渓谷沿いに絶景を楽しめる露天風呂まで備えていた――。
いや。そうじゃない。
そこでなにを目にしたのか。それが重要なのだ。
目の前で、火柱が暗闇を焦がすように立ち上がっていた。
五月上旬。とは言え、山間部の未明の空気は冷たい。その冷気を払うように炎が踊っていた。踊り狂う炎は、やがて建物と共に父を焼き払い、母の心を打ち砕いた。
その時、初めてヒロは十三秒先の世界を知るようになった。
炎が踊る場所。ヒロの父が再建した温泉旅館の敷地は、かつてつがいの蝶――ヒョウモンモドキたちの楽園であり、神域だったと言われていた。その場所で、ヒロは両親――つがいの生贄を捧げた事で、果たしてこんな奇妙な現象に悩まされるようになったのだろうか。
十三秒先の世界。その声は、蝶の鳴き声。つまりそこは、蝶が鳴く場所でもあるのかもしれない。そんな世界に誘われて、禁忌を犯そうとする罪人の未来を変えろと、蝶たちが鳴きながら――あるいは泣きながら、迫ってくるようだ。禁断の神域を土足で汚した罪は簡単には償えない。
――下井津悠。
彼のつがいの相手は、中等部三年年一組の早川恵だった。
ならば、今も下井津が求めているのは恵なのだろうか。
十三秒が経過した。
果たして下井津はなにを見つけたのか。
恵はまだ中等部の教室で授業を受けている。まさか退職した下井津が教室まで入り込んで、彼女に会いにきたのだろうか。
当初は恵が下井津に夢中になっていた筈だ。ヒロは雪と共にホテルに入る二人の姿を目にした。あの時も恵が自ら望んで一線を越えたのだろう。下井津はどこまでも受け身のようだった。
では、なぜ彼は今になって恵に執着するのか。校内で噂されたように、下井津は小児性愛者だったからか。
それは、まるであの男と同じではないか。
ヒロはギュッと唇を噛み締める。血の味がしたのは、唇を噛み切ったためだろうか。動悸が速くなる。目眩がしそうだった。
次の瞬間。
蝶たちの鳴き声が、ヒロの頭の中で弾けた。
《……お姉ちゃん》
ヒロは息を飲んだ。
スッと立ち上がると、短いコンクリートの階段を一気に駆け上がった。そのまま体育館のドアに取りつく。そして思いきりその金属のドアをスライドさせた。
ガンッ、と硬質の音が室内に響き渡る。
きゃあっ! と甲高い悲鳴を上げたのは、女性の体育教師ではなかったか。彼女はギョッとした顔になっている。バスケットボールの練習をしていた女子たちも驚いた顔をこちらに向けている。
――な、なに?
――アレ、鏑木でしょ。
――なんか、必死じゃない。ヤバそうな顔してる。
女子たちが騒ぎ出す。
ヒロは気にせず、周囲を見回した。コートの中にはいない。ならば、とコートの外に目を向けた時に、ようやくその少女を見つけた。
ショートボブの小柄な少女が、膝を抱えて座っている。
「魚津っ!」とヒロは思わず叫んだ。少し息が上がる。
「な、なんなの……」
魚津さつきは腰を引いて、手をついたまま少し後ろに下がってしまった。ずいぶん不恰好だが、この気の強い同級生が怯えている。どうやら、今のヒロはよほど酷い顔になっているのかもしれない。
構わず、彼は叫ぶ。
「クミちゃんが危ない!」
さつきは目を丸くして、その場で固まってしまった。

