十月の金曜日。その午後。
中等部三年年一組の古典の授業は佳境に入っている。
古典の担当は、四十代の女性教師だった。彼女の音読する声は抑揚のない読経のようにも聞こえてしまう。
彼女は中世の短編集に収められた物語の一つを声に出して読んでいる。
雪にはその声が意味を持たない音の連続のように聞こえていた。
ひょっとしたら、教師が白いマスクをつけているせいなのかもしれない。くぐもった声では、言葉の意味を捉え辛くもなる。
それでも「虫」やら「花」と言った短い単語なら、スッと頭に入ってくる。
それに、もう一つ。
教師は、やけにはっきりと「蝶」と言った。
雪は古典の教科書に目を落とす。開いたページには「堤中納言物語」の言葉が踊っていた。
ああ、そうだった。
これは「虫愛づる姫君」の話。
《見つけた、ぼくの大好きな――》
雪の頭の中に声が響いた。
それは久しぶりに聴いた十三秒先の声だった。
男の人。それも大人の声だ。そこにとても暗い感情が込められている気がしたのだから、一瞬だけ背筋がゾッとしてしまったのだ。
ただ、確かに聞き覚えがある筈なのに、直ぐに声の主の顔が思い出せなった。
雪は一人の少女の背中に視線を走らせる。
斜め前の席。そこにいるのは早川恵だった。白いシャツの上に深緑のチェックが入ったベストを重ねている。
恵の背中は軽く動いている。静かな上下運動。漆黒のショートカットもそれに合わせて少し揺れている。
頭を下に向けているのだから、彼女は本当に眠っているのかもしれない。
既に十三秒は過ぎた。
先ほど聴こえた声は、現実の音となってどこかの空間を彷徨っている筈だ。それはこの教室の中ではない。
どこに……?
その時になって、雪は声の主の顔を思い出した。
――下井津悠。
それは数ヶ月前まで、ここで数学を担当していた元教師だった。彼の顔はあまり覚えていない。長めの髪がいつも彼の銀縁のメガネにかかっていた。その印象が強くて、あまり表情が見えなかったのだ。
そんな下井津に夢中になっていたのが恵だった。
当の下井津は、恵の事をどう思っていたのか。本当のところを雪は知らない。
結果として、彼はたかが十五歳の少女と一時の快楽を得るために、三十年足らずの人生で掴んだ職も名誉も捧げてしまったのだ。
そして、全てを簡単に失った。
まるであの男――あの時、自分の隣で眠っていた中年の男のようだと雪は思う。
しかし直後にそうではないと思い直した。
あの男の命まで失ったのだ。
下井津はまだ全てを失ってはいない。結局は学校が穏便に対処したために、彼は犯罪に問われる事がなかった。それに彼は生きている。駅前の学習塾で講師として働いているのだ。
不意に声が聴こえたのだから、ひょっとしたら、下井津は直ぐ近く――例えば、校内にいるのかもしれない。
どうして彼はこの学校にいるのか。
なにを彼は「見つけた」のか。
その答えは――。
《……お姉ちゃん》
別人の声が頭に響く。小さな女の子の声のようだった。
その声も、確かにどこかで聴いた事がある。
「はい、じゃあ、今日はここまでね」
教師は既に古典の音読を終えていた。
数秒遅れて、授業の終了を告げるチャイムが校舎内に響き渡る。
彼女は教卓に置いた教科書やら資料やらを手早くまとめて、教室を後にした。
生徒たちが、睡魔に耐えるだけの授業が終わった解放感で騒ぎ始める。ほとんどの生徒はマスクを顎にずらして、息苦しさから逃れようとする。
雪もそっと自分のマスクを外した。早川恵の背中に目を向ける。
恵の机の近くには、二人の女子がいた。
「やばい。ずっと寝てたわ」と恵は笑いながら周囲の女子たちに向かって言う。
雪は立ち上がり、ゆっくりと彼女の席に近づいていく。
「やっぱり六限ってホント長いわー。古典だとさらに長く感じるし」
そこにいる女子の肩をグイと押しのける。
雪に押されたその女子は「な、なに……」と声を上げる。雪を見ると、目を見開いて固まった。よほど驚いたようだ。
恵も席に座ったまま、目を丸くしている。
「恵……」
雪は静かに彼女の名前を呼ぶ。
その瞬間、恵は我に返ったのか。目を吊り上げて、キッと睨んでくる。
「あんた、どう言うつもり……」
「下井津先生と、まだ会ってるの?」
「――――っ!」
恵は言葉を失っている。
「あり得ないんだけど……」と隣の女子が小さく漏らす。
なるほど、と雪は思う。
どうやら下井津の名は、今は禁忌になっているようだ。あるいは呪いそのものなのかもしれない。
しかし雪にとっては、そんな事はどうでも良い。それよりも先程耳にした十三秒先の声の方が重要だ。あの下井津の声には、暗い情念が込められていた。嫌な予感がする。彼が校内にいて、早川恵を探しているのだとしたら――。
「恵、まだ下井津先生と――」
「知らないわよ!」
ダンッと机を叩いて、恵は立ち上がった。
「あんた、いったいなんなの!」
「声が聴こえたから、下井津先生の……」
恵の瞳が揺れる。彼女の体が小刻みに震えている。
「いい加減にしてよ!」
恵は甲高い声で叫んだ。その目はこちらを見ているようで、見ていない。
「いっつもいっつもアイツに学校の近くで待ち伏せされて、こっちはもううんざりなのよ!」彼女の声が室内に反響する。「コンビニでも後をつけられたし! 本当に気持ち悪い!」
その時になって本人も、室内が静まり返っている事に気がついたらしい。大半のクラスメイトたちは、固唾を飲んで恵たちを凝視している。恵の近くいた二人の女子は、互いに顔を見合わせ、音もなく後退りする。半狂乱になった恵とは関わりたくないと言う意思表示なのか。
「じゃあ、やっぱり――」
そこで雪は言葉を詰まらせた。
やはり下井津悠はこの校内にいる。
「もう嫌……。あの変態……」恵の声は震えている。「お母さんが、ストーカーがいるって……警察に、連絡してくれたから」
彼女の真っ赤な目から、涙がこぼれ落ちている。
この子の心は壊れそうになっている。
どうすれば良いのかなんて、雪には分からない。
雪は壊した側の人間だ。心を失った鏑木里佳子に、どう接すれば良いのかすら、いまだに分からないままでいるのだから。
その時。
ダンッ、と勢い良く教室のドアが開かれた。
同級生の視線が一斉にそちらに向かう。
「柳田!」
鏑木ヒロが、ドアに手をかけて立っていた。
「……ヒロ」
雪はふらりとドアに近づいていく。
ヒロは肩で息をしている。彼もマスクをつけていない。よほど急いできたのかもしれない。
「どうしたんですか?」
もう直ぐ六限目の授業が始まる。こんな時間にヒロがどうしてここに来たのか。
しかも、ヒロは一人ではなかった。
彼の背後には、魚津さつきがいる。さつきもマスクをつけずに、息を荒げて前屈みになっている。彼女のふわりとしたショートボブが少し乱れている。
彼女もこの教室まで走ってきたのか。
だけど、なんのために――。
「クミちゃんが危ない。下井津に連れていかれた……」
ヒロは苦しそうな顔でそう言った。
中等部三年年一組の古典の授業は佳境に入っている。
古典の担当は、四十代の女性教師だった。彼女の音読する声は抑揚のない読経のようにも聞こえてしまう。
彼女は中世の短編集に収められた物語の一つを声に出して読んでいる。
雪にはその声が意味を持たない音の連続のように聞こえていた。
ひょっとしたら、教師が白いマスクをつけているせいなのかもしれない。くぐもった声では、言葉の意味を捉え辛くもなる。
それでも「虫」やら「花」と言った短い単語なら、スッと頭に入ってくる。
それに、もう一つ。
教師は、やけにはっきりと「蝶」と言った。
雪は古典の教科書に目を落とす。開いたページには「堤中納言物語」の言葉が踊っていた。
ああ、そうだった。
これは「虫愛づる姫君」の話。
《見つけた、ぼくの大好きな――》
雪の頭の中に声が響いた。
それは久しぶりに聴いた十三秒先の声だった。
男の人。それも大人の声だ。そこにとても暗い感情が込められている気がしたのだから、一瞬だけ背筋がゾッとしてしまったのだ。
ただ、確かに聞き覚えがある筈なのに、直ぐに声の主の顔が思い出せなった。
雪は一人の少女の背中に視線を走らせる。
斜め前の席。そこにいるのは早川恵だった。白いシャツの上に深緑のチェックが入ったベストを重ねている。
恵の背中は軽く動いている。静かな上下運動。漆黒のショートカットもそれに合わせて少し揺れている。
頭を下に向けているのだから、彼女は本当に眠っているのかもしれない。
既に十三秒は過ぎた。
先ほど聴こえた声は、現実の音となってどこかの空間を彷徨っている筈だ。それはこの教室の中ではない。
どこに……?
その時になって、雪は声の主の顔を思い出した。
――下井津悠。
それは数ヶ月前まで、ここで数学を担当していた元教師だった。彼の顔はあまり覚えていない。長めの髪がいつも彼の銀縁のメガネにかかっていた。その印象が強くて、あまり表情が見えなかったのだ。
そんな下井津に夢中になっていたのが恵だった。
当の下井津は、恵の事をどう思っていたのか。本当のところを雪は知らない。
結果として、彼はたかが十五歳の少女と一時の快楽を得るために、三十年足らずの人生で掴んだ職も名誉も捧げてしまったのだ。
そして、全てを簡単に失った。
まるであの男――あの時、自分の隣で眠っていた中年の男のようだと雪は思う。
しかし直後にそうではないと思い直した。
あの男の命まで失ったのだ。
下井津はまだ全てを失ってはいない。結局は学校が穏便に対処したために、彼は犯罪に問われる事がなかった。それに彼は生きている。駅前の学習塾で講師として働いているのだ。
不意に声が聴こえたのだから、ひょっとしたら、下井津は直ぐ近く――例えば、校内にいるのかもしれない。
どうして彼はこの学校にいるのか。
なにを彼は「見つけた」のか。
その答えは――。
《……お姉ちゃん》
別人の声が頭に響く。小さな女の子の声のようだった。
その声も、確かにどこかで聴いた事がある。
「はい、じゃあ、今日はここまでね」
教師は既に古典の音読を終えていた。
数秒遅れて、授業の終了を告げるチャイムが校舎内に響き渡る。
彼女は教卓に置いた教科書やら資料やらを手早くまとめて、教室を後にした。
生徒たちが、睡魔に耐えるだけの授業が終わった解放感で騒ぎ始める。ほとんどの生徒はマスクを顎にずらして、息苦しさから逃れようとする。
雪もそっと自分のマスクを外した。早川恵の背中に目を向ける。
恵の机の近くには、二人の女子がいた。
「やばい。ずっと寝てたわ」と恵は笑いながら周囲の女子たちに向かって言う。
雪は立ち上がり、ゆっくりと彼女の席に近づいていく。
「やっぱり六限ってホント長いわー。古典だとさらに長く感じるし」
そこにいる女子の肩をグイと押しのける。
雪に押されたその女子は「な、なに……」と声を上げる。雪を見ると、目を見開いて固まった。よほど驚いたようだ。
恵も席に座ったまま、目を丸くしている。
「恵……」
雪は静かに彼女の名前を呼ぶ。
その瞬間、恵は我に返ったのか。目を吊り上げて、キッと睨んでくる。
「あんた、どう言うつもり……」
「下井津先生と、まだ会ってるの?」
「――――っ!」
恵は言葉を失っている。
「あり得ないんだけど……」と隣の女子が小さく漏らす。
なるほど、と雪は思う。
どうやら下井津の名は、今は禁忌になっているようだ。あるいは呪いそのものなのかもしれない。
しかし雪にとっては、そんな事はどうでも良い。それよりも先程耳にした十三秒先の声の方が重要だ。あの下井津の声には、暗い情念が込められていた。嫌な予感がする。彼が校内にいて、早川恵を探しているのだとしたら――。
「恵、まだ下井津先生と――」
「知らないわよ!」
ダンッと机を叩いて、恵は立ち上がった。
「あんた、いったいなんなの!」
「声が聴こえたから、下井津先生の……」
恵の瞳が揺れる。彼女の体が小刻みに震えている。
「いい加減にしてよ!」
恵は甲高い声で叫んだ。その目はこちらを見ているようで、見ていない。
「いっつもいっつもアイツに学校の近くで待ち伏せされて、こっちはもううんざりなのよ!」彼女の声が室内に反響する。「コンビニでも後をつけられたし! 本当に気持ち悪い!」
その時になって本人も、室内が静まり返っている事に気がついたらしい。大半のクラスメイトたちは、固唾を飲んで恵たちを凝視している。恵の近くいた二人の女子は、互いに顔を見合わせ、音もなく後退りする。半狂乱になった恵とは関わりたくないと言う意思表示なのか。
「じゃあ、やっぱり――」
そこで雪は言葉を詰まらせた。
やはり下井津悠はこの校内にいる。
「もう嫌……。あの変態……」恵の声は震えている。「お母さんが、ストーカーがいるって……警察に、連絡してくれたから」
彼女の真っ赤な目から、涙がこぼれ落ちている。
この子の心は壊れそうになっている。
どうすれば良いのかなんて、雪には分からない。
雪は壊した側の人間だ。心を失った鏑木里佳子に、どう接すれば良いのかすら、いまだに分からないままでいるのだから。
その時。
ダンッ、と勢い良く教室のドアが開かれた。
同級生の視線が一斉にそちらに向かう。
「柳田!」
鏑木ヒロが、ドアに手をかけて立っていた。
「……ヒロ」
雪はふらりとドアに近づいていく。
ヒロは肩で息をしている。彼もマスクをつけていない。よほど急いできたのかもしれない。
「どうしたんですか?」
もう直ぐ六限目の授業が始まる。こんな時間にヒロがどうしてここに来たのか。
しかも、ヒロは一人ではなかった。
彼の背後には、魚津さつきがいる。さつきもマスクをつけずに、息を荒げて前屈みになっている。彼女のふわりとしたショートボブが少し乱れている。
彼女もこの教室まで走ってきたのか。
だけど、なんのために――。
「クミちゃんが危ない。下井津に連れていかれた……」
ヒロは苦しそうな顔でそう言った。

