豹紋もどき


       *

 雪がその声を聴いたのは、赤とオレンジの炎を目にする少し前だった。
 その鮮やかな色の炎は、まるで意志を持っているかのように、とても楽しく踊っているようだった。
 それは果たしてどれくらい前に聴いた声だったのか。あの時はなにも分からなかった。
 だけど、今ならばもう分かる。
 あれは、十三秒先の声だったのだ――。

《――蝶々、もう捕まっちゃったのね……》

 雪の頭の中に他人の声が響き渡る。
 大人の女の声のようだけど、聴き覚えがない。
 幻聴なのだろうか、とその時は思っていた。それに、それほど大きな音量でもなく、何度も繰り返されるものではないのなら、それほど気に障る事もない。
 最初から聴かなかった事にしても良い。なにもなかったと思えるのなら、大した事はない。
 とは言え。
 やはり気にはなる。
 そもそも、誰の声なのだろう。
 大人の女性とは言っても、雪の母のものとは違っていた。学校の教師たちのものでもなさそうだ。近所のコンビニの店員や、スーパーのレジで見かけるパートの人たち――それもどこか違うような気がする。
 雪はベッドの上に体を横たえている。温泉旅館の高価な部屋のベッドは寝心地が良い。ずいぶん高価なマットレスでも使っているのだろう。
 ここにいるのは、雪と、もう一人だけ。
 雪の隣で眠っているのは、母ではない。
 この大人は女ではない。そもそもここは、母が予約を入れた部屋でもない。
 雪は母の手引きによって、数時間前にここに連れて来られた。
 雪の隣で横たわる中年の男は大いびきをかいて眠っている。つい数十分前まで、彼は雪の耳元で「……好きだ」、「大好きなんだ」、「愛してる」、「愛してるよ」、「愛してるから……」と繰り返し耳元で囁いていた。
 その間、雪は歯を食いしばっていただけだった。
 たとえ雪がなにか言っても――それが悲鳴だったとしても、男の耳には入らなかったのかもしれない。最初から、彼の目は虚ろだった。
 やがて疲れたのか、男は冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を飲んだ。その後にベッドに横になってから、直ぐに意識を手放した。彼はあれだけ激しい動きをした後なのに、あまりにも早く眠ってしまったのだ。
 とても自然に眠りに落ちたとは思えないくらいに、いとも簡単に――。

「――蝶々、もう捕まっちゃったのね……」

 雪の思考が停止する。
 それは空気の振動が感じられるほどの鮮明な声だった。先ほど聴こえた声と良く似ている。
 これは頭の中に響いたものではない。
 気がつけば、寝室の向こうに人が立っていた。
 黒い髪をサラリと流した細身の女がいる。見知らぬ女。マスクをつけていないため、口元の皺の深みが見える。若くはない。ちょうど隣に寝ている男と同じくらいの年齢かもしれない。四十代の半ばだろうか。
 彼女はシンプルな白のブラウスの上に茶色のカーディガンを羽織って、ベージュの細身のパンツを合わせている。なんの変哲もない普段着のようだ。
 それでも。
 こんな山間部の温泉旅館で目にする姿ではない。
 女の唇が僅かに動いた。
「あの人は、クスリで眠らせた……」
 なにを言っているのか。
 雪はベッドから体を起こす。自分の肌が露わになる。裸のままだった。
 この部屋に連れて来られた時、雪は中等部の制服を着ていた。その制服は、下着と共に畳の上に散らかっている。
 慌てて体にシーツを巻きつける。
「あなたの母親も同じ。クスリでずっと眠らせてあげる……」
 女は静かに続ける。
 同時に、彼女の青白い顔に小さな黒い影が踊った。その影は、まるで黒とオレンジの羽を持った蝶――ヒョウモンモドキのようだった。
 パチッ、パチッと。
 油が弾けるような音が聞こえた。焦げ臭さが鼻につく。
 音のする方向――寝室の隣の客室を見ると、白い煙がうねるように流れていた。
 あ、と雪は思わず声を出した。慌ててドアに目を向ける。
 女の姿はそこにはない。いつの間に消えてしまったのか。
 雪はシーツを纏い走り出した。ベッドから飛び降りた時、隣で寝ていた男が寝返りを打った気配がした。それでも振り向かずに、寝室を抜け、客室のドアまでたどり着く。
 その間に、室内のほとんどは煙に包まれてしまった。
 バチバチとなにかが燃えるような音がすぐ近くから聞こえてくる。その音が、少しずつ大きくなっている。
 なにかが、確実に近づいてきている。背筋がぞくりとした。
 男のいびきはもう聞こえてこない。
 部屋のドアは軽く押しただけで、すうっと開いた。ほとんど同時に、背中から白い煙が追い越して、廊下にまで漏れ出していく。
 一刻も早く、ここから出て行かなければ、本当に――。
 次の瞬間。
 ドンッ、と爆音が辺りに響いた。
 風圧で背中を押されて、雪は廊下のフローリングの上に転がり込む。
 なにが起こったのか――それを考えるよりも、直ぐに体を動かした方が良い。まだ頭ははっきりとしている。
 客室は地上階だった。廊下の直ぐ向こうには、大きなガラス戸があった筈だ。
 ガラス戸の向こうは、漆黒の闇に包まれた庭園。外の世界に通じている。
 雪は床に手をついて立ち上がろうとする。
 だけど片腕がペタンと床に折れてしまって、うまく立てない。もう一方の手に力を込める。手のひらは床の上をぬるりと滑ってしまった。どうしてこうなるのか分からない。まるで手にオイルでもついてしまったようだ。息が上ってしまう。
 ガラス戸までは、それほど遠い距離でもない筈なのに、どれほど力を込めても近づきそうにはない。
 ヒリつくような熱気が肌に触れる。
 その時になって、視界にオレンジの炎が飛び込んできた。もう周囲に火の手が回っている。
 早く、外に――。
 それだけを頭の中で反芻させながら、重い体をなんとか動かしている。

《た、助けてくれぇ!》

 男の絶叫が頭の中で響いた。
 この声は、あの中年の男の声だ。
 叫んでいる割には、ずいぶんボリュームが小さい。だから迫力もなく、どこか滑稽でもある。
 雪は笑ってしまいそうになる。
 いや。むしろ笑った方が良い。
 ようやくここから逃げ出せるのだ。もう歯を食いしばって我慢しなくても良い。
 あの男から、そして、母からも逃げ出せるのだから。
 雪は手を滑らせながら、床に体を這わせて少しずつ前に進んでいく。
 フローリングの上には、小石のような粒が巻かれている。手が滑ってしまうのに、そんなものがあればますます体を前に進める事が難しくなる。手に当たっても感覚はない。だけど、腕や太ももにその粒が触れると痛みが走る。
 こんなところに小石があるのはおかしい。
 そう思って、じっとその粒を見てしまった。それは砕けたガラスの破片のようだった。そこに自分の赤黒い血のりが、べったりと絡みついてしまっている。
 ひっ、と雪は小さく叫んだ。
 そこで手のひらに視線を移すと、一面が赤黒い血で覆われている。こんな手でいくら踏ん張っても、滑ってばかりだ。
 やっとの事で、雪は全壊したガラス戸の前にたどり着いた。
 そうして、その先にある漆黒の闇に向かって、震える手を伸ばし続けた。