黒とオレンジの模様の入った羽の蝶――ヒョウモンモドキを、いったいどこで見つけたのか。
柳田雪は全く覚えていない。
蝶はアズミの花を求めて、ヒラヒラと儚く飛んでいる。
そんな姿をどこかで目にした筈なのに、と彼女は思う。あるいは見てもいないのに、そんな蝶の姿を見た事があるのだと思い込んでいるだけなのかもしれない。
この蝶にまつわる話は聞いた事がある。雪の母が眠る前に教えてくれた話だ。
ただしそれは童話や昔話、あるいは子守唄のようなものではなかった。物語よりも、本当の世界――現実を知るための教訓に近いものだった。現実は夢が溢れている場所でもなければ、幸せになる結末が保証されている訳でもない。結局はそんな話だったのだけど、そんなものを聞かされると眠くはならない。それどころか、眠くなってはダメだからこそ母はあの夜に蝶の話を続けたのだろう。
あの夜の出来事。
始まりは、まだ宵の口の頃だった。
その時、雪は母と共に山間部の温泉旅館にいた。
五月の連休に親子で二人きりの家族旅行を楽しんでいた――焼け落ちた建物から助け出された後、雪は大人たちにその時の状況をそう説明していた。救急車の中で声をかけてきた救急隊員。それに病室で面会した県警の警察官たちは、もちろん雪の話を信じてくれた。
あれから数ヶ月経った今でも、雪の周囲の大人たちはそう信じてくれている。
例えば、そう。
鏑木里佳子だってそうだ。
「家族旅行って良いわね」と彼女は満面の笑みで言ってくれた。もちろん、その時の里佳子の視線は、部屋の中のあちこちを彷徨っていた。
鏑木ヒロはどうだろう?
恐らく、ヒロは雪の作り話など簡単に見抜いてしまうだろう。彼はいつの間にか雪の十三秒先の声を聴いてしまっているのだから。
ひょっとしたら温泉旅館にいた時も、ヒロは雪の声を聴いていたのかもしれない。
どんな時も、自分の声は彼には聴かれたくない。特にあの旅館で過ごした夜なら尚の事そうだ。
果たして、あの夜にヒロにはどんな声を聴かれたのか。
それがどうしても気になってしまう。心が落ち着かない。
ヒロは十三秒先の声を聴いて、雪の未来を変えてしまったのだろうか。
もしもヒロが変えてしまったのだとしたら――消えてしまった自分の未来は、どんなものだったのだろう。
果たして美しいものだったのだろうか。
それとも目に余るほどの醜いものだったのだろうか。
そのどちらなのか。
恐らく、ヒロが本当に消したのならば――。
母が雪にあの蝶の話を聞かせたのは、彼女がヒロと出会うよりも少し前――まだ日が暮れて間もない頃だった。
「ねぇ、雪。知ってる?」
母は浴衣の袖を肩の辺りまで捲り上げる。二の腕辺りに爪を押しつけるようにして引っ掻いた。虫にでも噛まれたのか。爪を押しつけた場所の肌が、うっすらと赤く滲んでいる。
「これはね、生きていくためのゲームなの」
綺麗な木目の浮かんだローテーブル。その上に、二つの白い不織布のマスクが無造作に置かれている。母と雪がつけていたものだ。
今は二人とも浴衣を着て、大浴場でお湯に浸かったのだから、もう外に出る事はない。このマスクはもうゴミ箱に捨てても良い。
「……ゲーム?」
そう、と母は口角を僅かに上げる。
「羽化したメスの蝶が生きていくためのゲーム」
彼女は薄い笑みを浮かべている。
その顔を見てしまうと、雪は訳もなく体が震えてしまう。今すぐにでもこの部屋から逃げたしたくなってくる。だけどこんな山奥では、逃げる場所などどこにもない。
ここは温泉旅館の客室。和室と寝室が並んでいる。寝室の青々しい畳の上にはツインベッドまで据えられている。
ここが一泊いくらするのか。
雪には見当もつかない。それでも母子家庭の柳田家が気軽に予約できるような場所ではない事くらいは分かっている。母の収入は、登録派遣の家政婦の仕事だけしかないのだから。
「あんた、ヒョウモンモドキって蝶のこと知ってる? 学校で習ったことないの?」
母は、娘の通う中学校に興味を示したことなど一度もない。
雪はかぶりを振る。
「あら、そう。あの学校、結構高い学費取るのになにも教えてくれないのね」
この旅館もそうだが、私立の中高一貫校に通う事も貧しい柳田家には不相応だ。だけど母は知り合いに勧められたからと言って、半ば強引に娘に受験勉強を続けさせた。
彼女はどんな人と知り合いだったのか。
母は、雪のクラスの保護者会にすら一度も顔を見せた事がない。担任との個別面談もいつも欠席だった。こんな人が教育熱心である筈がない。ならば、どうやって娘の進学先を相談できる相手を見つけていたのか。
雪は、もうその答えを知っている。
ひょっとしたらこの蝶の話も、その知り合いからの受け売りなのかもしれない。
「ヒョウモンモドキのメスってね、羽化すると直ぐにオスと交尾を済ませるのよ」
得意気な声。
母の顔に貼りついているのは、下卑た笑みでしかない。
もうこの話を聞きたいとも思わない。耳を塞ぎたいのに、体が言う事をきかない。「やめて」と言いたいのに、声も出せない。
それでも母はまだ蝶の話を続けようとする。
「メスは一度後尾をすると、もう他のオスには見向きもしなくなるの。運の悪いオスだと、メスに出会う前に死んだりするのかもしれないわね。だからこれはゲームなの。自分の子供を残すためのゲーム」
彼女は意地が悪そうな声で言う。母は敢えてそう演じているのかもしれない。まるで、メスに出会えずに死んでしまった間抜けなヒョウモンモドキのオスを憐れむように。
「でも、このゲームに勝つオスは、メスが羽化すれば、直ぐに交尾ができるようになっているの」
母は笑みを深める。ねっとりとした粘着質のある顔だ。
「オスはちゃんと準備して、じっと待ってる。タイミングが重要なの。いつメスが羽化するのか分からないし、この蝶って成虫で生きていられるのはせいぜい一週間程度なんだから」
彼女は目を細めている。そうすると、目尻の皺がずいぶん目立ってくる。
「あたしね、やっぱり自分のオスを勝たせてあげたいのよ。これまでも何度もここでメスを用意したんだけど、やっぱりあの人――じゃなくて、あのオスは全然満足してくれないだから」
嫌になるわよ、と彼女はごちる。
「だから今回は特別。あのオスに初めて、あたしのとっておきを用意するんだから。あのオスの大好きなあの学校の制服も、ちゃんと持ってきてるんだし……」
これ以上、もうこの人の顔も見たくはない。
見たくはないのだけど、雪は少し前から体が思うように動かなくなっているのだから、母の顔からどうしても目が離せない。
母はとても醜悪な顔をしている。こうはなりたくない。だけどこの人の娘なら、自分もいつかこんな顔になるのかもしれない。
その時が、ずっと来なければ良い。そう願う。
「ゲームに勝つと、やっぱり賞品が貰えるでしょう?」
母が言う「ゲーム」とはなにか。よもやスマートフォンやパソコンで楽しむようなオンラインのゲームではあるまい。それは楽しみよりも、生きるための根源的なものを求めるための競争。子孫を残すための行為。彼女が崇める蝶――ヒョウモンモドキのオスがメスに求める行為と同じなのかもしれない。
それを、誰に求めるのか。
「オスはいつか死んでしまうのよ。それは一週間後かもしれないし、十年後かもしれない。死んでしまうと、自分の子供に遺産とか残すじゃない。でもね、その子供は、産んだメスのものでもあるの。それなら、ちょっとくらいあたしのオスを助けてあげても、全然悪い話じゃないわよね」
だからね、と母は低い声で続ける。
彼女の吐く息が、雪の鼻をつく。
「早く羽化してちょうだい、雪……」
柳田雪は全く覚えていない。
蝶はアズミの花を求めて、ヒラヒラと儚く飛んでいる。
そんな姿をどこかで目にした筈なのに、と彼女は思う。あるいは見てもいないのに、そんな蝶の姿を見た事があるのだと思い込んでいるだけなのかもしれない。
この蝶にまつわる話は聞いた事がある。雪の母が眠る前に教えてくれた話だ。
ただしそれは童話や昔話、あるいは子守唄のようなものではなかった。物語よりも、本当の世界――現実を知るための教訓に近いものだった。現実は夢が溢れている場所でもなければ、幸せになる結末が保証されている訳でもない。結局はそんな話だったのだけど、そんなものを聞かされると眠くはならない。それどころか、眠くなってはダメだからこそ母はあの夜に蝶の話を続けたのだろう。
あの夜の出来事。
始まりは、まだ宵の口の頃だった。
その時、雪は母と共に山間部の温泉旅館にいた。
五月の連休に親子で二人きりの家族旅行を楽しんでいた――焼け落ちた建物から助け出された後、雪は大人たちにその時の状況をそう説明していた。救急車の中で声をかけてきた救急隊員。それに病室で面会した県警の警察官たちは、もちろん雪の話を信じてくれた。
あれから数ヶ月経った今でも、雪の周囲の大人たちはそう信じてくれている。
例えば、そう。
鏑木里佳子だってそうだ。
「家族旅行って良いわね」と彼女は満面の笑みで言ってくれた。もちろん、その時の里佳子の視線は、部屋の中のあちこちを彷徨っていた。
鏑木ヒロはどうだろう?
恐らく、ヒロは雪の作り話など簡単に見抜いてしまうだろう。彼はいつの間にか雪の十三秒先の声を聴いてしまっているのだから。
ひょっとしたら温泉旅館にいた時も、ヒロは雪の声を聴いていたのかもしれない。
どんな時も、自分の声は彼には聴かれたくない。特にあの旅館で過ごした夜なら尚の事そうだ。
果たして、あの夜にヒロにはどんな声を聴かれたのか。
それがどうしても気になってしまう。心が落ち着かない。
ヒロは十三秒先の声を聴いて、雪の未来を変えてしまったのだろうか。
もしもヒロが変えてしまったのだとしたら――消えてしまった自分の未来は、どんなものだったのだろう。
果たして美しいものだったのだろうか。
それとも目に余るほどの醜いものだったのだろうか。
そのどちらなのか。
恐らく、ヒロが本当に消したのならば――。
母が雪にあの蝶の話を聞かせたのは、彼女がヒロと出会うよりも少し前――まだ日が暮れて間もない頃だった。
「ねぇ、雪。知ってる?」
母は浴衣の袖を肩の辺りまで捲り上げる。二の腕辺りに爪を押しつけるようにして引っ掻いた。虫にでも噛まれたのか。爪を押しつけた場所の肌が、うっすらと赤く滲んでいる。
「これはね、生きていくためのゲームなの」
綺麗な木目の浮かんだローテーブル。その上に、二つの白い不織布のマスクが無造作に置かれている。母と雪がつけていたものだ。
今は二人とも浴衣を着て、大浴場でお湯に浸かったのだから、もう外に出る事はない。このマスクはもうゴミ箱に捨てても良い。
「……ゲーム?」
そう、と母は口角を僅かに上げる。
「羽化したメスの蝶が生きていくためのゲーム」
彼女は薄い笑みを浮かべている。
その顔を見てしまうと、雪は訳もなく体が震えてしまう。今すぐにでもこの部屋から逃げたしたくなってくる。だけどこんな山奥では、逃げる場所などどこにもない。
ここは温泉旅館の客室。和室と寝室が並んでいる。寝室の青々しい畳の上にはツインベッドまで据えられている。
ここが一泊いくらするのか。
雪には見当もつかない。それでも母子家庭の柳田家が気軽に予約できるような場所ではない事くらいは分かっている。母の収入は、登録派遣の家政婦の仕事だけしかないのだから。
「あんた、ヒョウモンモドキって蝶のこと知ってる? 学校で習ったことないの?」
母は、娘の通う中学校に興味を示したことなど一度もない。
雪はかぶりを振る。
「あら、そう。あの学校、結構高い学費取るのになにも教えてくれないのね」
この旅館もそうだが、私立の中高一貫校に通う事も貧しい柳田家には不相応だ。だけど母は知り合いに勧められたからと言って、半ば強引に娘に受験勉強を続けさせた。
彼女はどんな人と知り合いだったのか。
母は、雪のクラスの保護者会にすら一度も顔を見せた事がない。担任との個別面談もいつも欠席だった。こんな人が教育熱心である筈がない。ならば、どうやって娘の進学先を相談できる相手を見つけていたのか。
雪は、もうその答えを知っている。
ひょっとしたらこの蝶の話も、その知り合いからの受け売りなのかもしれない。
「ヒョウモンモドキのメスってね、羽化すると直ぐにオスと交尾を済ませるのよ」
得意気な声。
母の顔に貼りついているのは、下卑た笑みでしかない。
もうこの話を聞きたいとも思わない。耳を塞ぎたいのに、体が言う事をきかない。「やめて」と言いたいのに、声も出せない。
それでも母はまだ蝶の話を続けようとする。
「メスは一度後尾をすると、もう他のオスには見向きもしなくなるの。運の悪いオスだと、メスに出会う前に死んだりするのかもしれないわね。だからこれはゲームなの。自分の子供を残すためのゲーム」
彼女は意地が悪そうな声で言う。母は敢えてそう演じているのかもしれない。まるで、メスに出会えずに死んでしまった間抜けなヒョウモンモドキのオスを憐れむように。
「でも、このゲームに勝つオスは、メスが羽化すれば、直ぐに交尾ができるようになっているの」
母は笑みを深める。ねっとりとした粘着質のある顔だ。
「オスはちゃんと準備して、じっと待ってる。タイミングが重要なの。いつメスが羽化するのか分からないし、この蝶って成虫で生きていられるのはせいぜい一週間程度なんだから」
彼女は目を細めている。そうすると、目尻の皺がずいぶん目立ってくる。
「あたしね、やっぱり自分のオスを勝たせてあげたいのよ。これまでも何度もここでメスを用意したんだけど、やっぱりあの人――じゃなくて、あのオスは全然満足してくれないだから」
嫌になるわよ、と彼女はごちる。
「だから今回は特別。あのオスに初めて、あたしのとっておきを用意するんだから。あのオスの大好きなあの学校の制服も、ちゃんと持ってきてるんだし……」
これ以上、もうこの人の顔も見たくはない。
見たくはないのだけど、雪は少し前から体が思うように動かなくなっているのだから、母の顔からどうしても目が離せない。
母はとても醜悪な顔をしている。こうはなりたくない。だけどこの人の娘なら、自分もいつかこんな顔になるのかもしれない。
その時が、ずっと来なければ良い。そう願う。
「ゲームに勝つと、やっぱり賞品が貰えるでしょう?」
母が言う「ゲーム」とはなにか。よもやスマートフォンやパソコンで楽しむようなオンラインのゲームではあるまい。それは楽しみよりも、生きるための根源的なものを求めるための競争。子孫を残すための行為。彼女が崇める蝶――ヒョウモンモドキのオスがメスに求める行為と同じなのかもしれない。
それを、誰に求めるのか。
「オスはいつか死んでしまうのよ。それは一週間後かもしれないし、十年後かもしれない。死んでしまうと、自分の子供に遺産とか残すじゃない。でもね、その子供は、産んだメスのものでもあるの。それなら、ちょっとくらいあたしのオスを助けてあげても、全然悪い話じゃないわよね」
だからね、と母は低い声で続ける。
彼女の吐く息が、雪の鼻をつく。
「早く羽化してちょうだい、雪……」

