豹紋もどき

「今日は、ありがとうございました」
 クミは笑っているようだった。彼女の口元は白い不織布のマスクでしっかりと覆われている。
 九月の最終日。十八時半を過ぎると、既に辺りは薄暗くなってきている。
「ぼくたち、今日はなにもしていないでしょ」
 ヒロの声はいつもにも増して穏やかだ。彼も雪と同じようにマスクをつけていない。いや。正確には、ヒロは顎には引っ掛けている。
 雪に至っては、自分のマスクをカバンのポケットに突込んだままにしている。
 戸外にいてまで、口の辺りがむず痒いのは耐え難い。とは言え、小学生よりも感染症対策の意識が低いのは、我ながらどうかしている。
「そ、そんな事ないです……」クミは手を振って否定する。「ヒロさんや雪さんがいてくれたから、安心できました。だから……良かったです」
「ヒロはともかく、あたしは本当になにもしてないですよ」
 雪は意地悪で言っている訳ではない。クミのためにお土産に持ってきたプリンですら、ヒロが選んで買ってきたのだ。
「そうじゃないんです!」
 閑静な住宅街の宵の口。人通りは少ない。
 この女の子の甲高い声は、マスク越しでも周囲に響き渡ってしまう。
「す、すみません。なんか大声出しちゃって……」
 街灯に照らされたクミの目はもう笑っていなかった。
 彼女は早足で歩き出す。
 ヒロは「大丈夫だよ」と言って彼女の背中を追いかける。
 雪も仕方なくヒロに続いて、早足になった。
「あの部屋にヒロさんと雪さんがいたから……あたし、お姉ちゃんにちゃんと言えたと思います」
 クミは前を向いたまま、ボソボソと喋っている。
 クミの実家はもう少しだけ先にあるようだ。
「だって、今日、あたしにも聴こえましたから……」
「聴こえたって、なにが?」
 雪はそう訊きながら、ヒロの横顔を伺う。
 ヒロもクミの背中をじっと眺めている。
「声です」
 クミは静かに言った。
 声とは何か?
 ドクンと雪の心臓が跳ねる。
「頭の中で聴こえる不思議な声なんです。ヒロさんが、ずっと前に教えてくれた声――『心の中の声』みたいなものなのかもしれませんけど……。それが、あたしにも、聴こえたような気がしました……」
 この子も、十三秒先の声を聴いていたのだろうか。
 ならばいったい誰の声を聴いていたのか。
「声って、魚津――つまり、お姉さんの声が、クミちゃんの頭の中で聴こえたの?」
 ヒロが優しく問いかける。
 クミは軽く首を横に振った。それは否定の意思だ。
 先ほどまでいたワンルームの部屋で、雪が耳にした十三秒先の声の主は二人だけだ。魚津さつきとクミの二人。雪はほとんど喋らなかった。
 ならばこの子は、誰の声を聴いたのか。
「じゃあ、誰の声ですか?」
 雪が思わずそう訊いた時、クミは歩を止めた。
 ふと気がつけば、一軒家の前に立っていた。玄関の斜め前に車の駐車スペースがあり、そこに大型の黒いSUVが止まっている。インターフォンのあるコンクリートの壁には、「魚津」と書かれた表札が貼ってある。
「あたしの声でした」
「あたしの声……?」
「自分の声を聴いたんです」
「なにも喋ってもないのに?」
 コクリとクミは頷く。
 そんな事が……と雪は言葉を失った。十三秒先で聴こえるのは、他人の声ばかりではないと言うのか。もちろん雪自身は、十三秒先の自分の声など一度も聴いた事がない。
「あの声が聴こえたから、本当に、やっと、言えたんです。お姉ちゃんと一緒にいたい、って……。やっと……」
 クミはすんと鼻を鳴らす。そして無造作に自分のマスクを剥ぎ取った。
 その瞬間、クミの白い頬に光の筋がゆっくりと走っていった。良く見ると、それは光ではなく、流れ落ちる涙の粒のようだった。
 クミは手のひらで目を抑える。手で何度も涙を拭う。それでも一度溢れ出した涙は止まらない。
「ずっと言いたかったから……もう誰かと離れ離れになるのって、嫌だったから……」
 クミの両親が離婚して、実父がいなくなった。体に残った火傷の跡で学校の同級生たちからは避けられ、やがてイジメられた。
 そんな苦しい時に、新しい父と共に、無愛想だけど、とても美しいバレリーナの姉がやってきたのだ。
 ひょっとしたら、クミはさつきに憧れているのかもしれない。
「ヒロさんと雪さんが、一緒にいてくれたから……。あの声が聴こえたんだと思います」
 だから、とクミはこちらを向いた。彼女は泣きながら笑っている。手にした小さなマスクをぎゅうと握りしめている。
「今日は本当にありがとうございました」
 クミは勢い良く頭を下げる。後ろで二つに分けて結んだ黒髪が、サラリと音を立てて流れた。