《ねぇ、そろそろ良い?》
低い声が、雪の頭の奥に響いた。
それは、ヒロのものでもなければ、クミのものでもない。もう一人の少女――この部屋の主でもある魚津さつきの声だ。
雪はさつきをチラと見る。
彼女はプリンの最後のひと欠片を頬張っていた。控え目の甘さと卵の濃厚な味わいが絶妙なバランスで舌の上を転がる――食レポを能弁に表情で伝えてきている。義妹と同じように、さつきもプリンは大好物なのだろう。
そんな事を考えているうちに、声が聴こえてからもう十秒は経過しただろうか。
不意に、さつきが顔を上げた。ペロリと舌を出して、桜色の唇についたカラメルソースを拭い取る。
「ねぇ、そろそろ良い?」
「良いよ」
ヒロは絶妙なタイミングで答える。
彼にも十三秒先の声は聴こえていたのだろう。
「――と言うかさ、俺も柳田も、今からなにをするのか良く分からないんだけど」
「まあ、そうよね」さつきはまだプリンと格闘している義妹に顔を向ける。「ねぇ、クミ。あんたが話したい事があるって言うから、この二人をここまで連れてきたんだけど」
「うん」
クミは素直に頷く。それでも彼女は食べかけのプリンに目を落としたままだ。
「いや、『うん』って頷くだけじゃ、なにも分からないでしょ」
「うん」
「あんたねぇ……」
さつきは目を細めて義妹をギロリと睨めつける。
どう見ても、この姉妹の仲は良いとは思えない。
そもそもさつきは、どうしてこのワンルームで一人暮らしをしているのか。彼女の母は健在だ。義理の父もいれば、義妹までいる。小学生の妹がここまで歩いてきたのだから、彼女の実家はそれほど離れた距離にはない筈だ。
《じゃあ、あんた、もう帰ってよ!》
再び、さつきの十三秒先の声が聴こえた。かなり棘のある声音だ。雪やヒロに向けられた言葉の可能性もある。だけどこの状況でなら、これは確実に十三秒先のクミに投げつけられるものだ。
クミは目を下げたまま固まっている。心なしか顔色も悪い。ヒロの買ってきたプリンを手にしてはしゃいでいた時の表情はもうどこにもない。
ならば、と雪は思う。
ここで、十三秒先のクミの未来を変えなければ――。
「魚津って、小さい頃からずっとバレエをやってたんだ……」
突然のヒロの声。
彼の視線の先には、横長の木製ラックがある。ラックの上には長方形の写真立てが一つだけ置かれている。
「……まあ、そうだけど」さつきは嫌そうに答える。
「今も続けてるの?」
「続けてたとしても、あんたに関係ないでしょ」
さつきはショートボブの頭に手を入れて、ガサガサと引っ掻く。
ヒロは気にせず続ける。
「どこで練習しているんだっけ? バレエ教室って、この町のどっかにあった?」
「駅前にあるわよ……」彼女は面倒くさそうに言う。「あんたは知らないと思うけど、ずっと昔に国立のバレエ団でエース張ってたダンサーがコーチやってるとこよ。この辺りのダンサーの間だと、結構有名だけどね」
写真に映っているのは、赤いバレエの衣装と白いタイツを身につけた少女だ。その顔は、紛れもなく幼い頃の魚津さつき。小学生なら最上級生。あるいは中学生になったばかりのようだから、十二、三歳くらいか。
だとしたら、この頃の彼女はまだ「魚津さつき」ではない。
さつきはバレエの衣装のまま、立派な盾と黄金のトロフィーを手にして満面の笑みを浮かべている。彼女の隣には、大人の男が立っている。さつきの面影がある顔だ。彼も笑っている。普通に考えれば、さつきの実父がそこに写っているのだ。
「そっか、だから教室であんなに綺麗に跳べたんだ……」とヒロは続ける。
さつきの声が聴こえてから、そろそろ十三秒が経っている。
恐らく、あの声は消えた。
ヒロが未来を変えたのかもしれない。
「…………」
さつきはなにか物言いたそうな表情を浮かべたまま、目を逸らす。
なにを言っているのか、とヒロに怒ったようにも見えるが、それを口には出さなかった。
「お姉ちゃん、高校でもバレエのジャンプをやったの?」
クミが顔を上げる。目を見開いて、楽しそうな顔になっている。
「あたしにも見せてよ! ここで跳んでみてほしい」
「チッ」とさつきは軽く舌打ちをする。「このマンションの床とか壁とか薄いんだから、ここで跳んだら直ぐに苦情が来るのよ」
経験者は語る、と言うのか。
「じゃあ、ウチならどう? ウチにはお庭もあるんだし、お姉ちゃんが戻ってくれくれたら――」
「あんた、なに言ってんの?」
さつきは眉間に皺を寄せる。彼女が目を細めると、猫のそれに近くなる。一見するとそれほど迫力はない。だけど、じっと見つめられたままでいると、彼女の内面にある強烈な感情――怒りが、細い目の間からジワジワと漏れ出してくるのが分かる。
「なにって、あたし……」
クミは再び顔を下げる。
さつきの迫力に気圧されたのか。その後の言葉が続かない。
《あたし、お姉ちゃんに家に帰ってきてほしい……。お姉ちゃんが大好きだから、一緒にいたい》
間違いなくクミの声だ。
頭の中に響いたその声は震えていた。涙声なのかもしれない。
ヒロに視線を送る。同じタイミングで、彼もこちらを見ていた。ヒロも十三秒先のクミの声を聴いて、どうすべきか迷っている。
クミは泣きながらも、必死になって本心をぶつけようとしている。
ならばこの未来は、絶対に変えるべきではない。
「あたしはあの家には戻らないわよ」
さつきは素っ気なく言う。
クミからプイと顔を背けてしまった。
「あの家にいると、あの人たちからあんたの世話まで勝手に押しつけられるし」
「あの人たちって……」
クミは弱々しく声を漏らす。
「あんたの親に決まってんじゃない。特にあんたの父親よ」
「今はお姉ちゃんのパパにもなったんだよぉ……」
「そんなの知らないわ」さつきは素っ気ない。「勝手に親になって、こっちがそうですかって納得しなきゃいけない理由なんてどこにもないじゃない」
クミはほとんど泣きそうになっている。大きな黒い瞳の周りには、溢れんばかりの涙が溜まっている。
「もう面倒くさいのよ! あんたが勝手に火傷して、学校でイジメられたとかどうだとか、あたしに言われても知らないわよ! 全然関係ないし! あたしだって、学校に友だちとかいないわよ。いてもウザいくらいにしか思わないけど――」
「ねぇ、クミちゃん」
そこでヒロが急に割って入った。
さつきは息を飲み込んだ。
「クミちゃんは、結局、どうしたいの?」
「あたし……」
クミは涙を流しながら、スンッと鼻を啜る。
「あたし、お姉ちゃんに家に帰ってきてほしい……。お姉ちゃんが大好きだから、一緒にいたい」
クミの声が狭い室内に響き渡る。
さつきの細い目が開いていく。もう猫の目ではない。その目が少しだけ瞳が揺らいでいるように思えた。少しは動揺しているからか。
「……るっさいわね」さつきは乱暴に髪を引っ掻いてから、スッと立ち上がる。「もう帰って!」
彼女は明後日の方向に顔を向けて叫ぶ。クミを直視する事はない。
「お姉ちゃん……」
ふん、とさつきは鼻を鳴らす。
「あんたたちもさ、こっちが呼んどいて悪いけど……もう帰ってもらっても良い? あたし、これからバレエの練習に行くから、早く着替えたいのよね……」
彼女はこちらを睥睨する。
そして、徐にシャツのボタンを外し始めた。

