*
ヒロがコンビニエンスストアで買おうとしたのは、有名なフレンチレストランのパティシエが監修したと言うプリンだ。
魚津クミがそんな豪華なプリンを待ち望んでいるとは思えない。
病室であの子が喜んで食べていたプリンは、もっとシンプルだった。例えば、大手の製菓メーカーが大量生産しているようなプリン。コンビニでも売っているけれど、スーパーのような量販店にも必ず置いてあるような安心のナショナルブランド。
「多分、これじゃないですよ」
雪は、レジに行く前のヒロに忠告する。
「いや、クミちゃんは絶対喜ぶから」
ヒロはそう断言すると、脇目も振らずにレジに並んでしまった。
学校から、ここに来るまでの間。雪の頭の中には、さつきやクミの声が何度も響いていた。それはもちろん、彼女たちの十三秒先の声だった。だけどいくら頭の中の声を拾おうと集中しても、懸命に耳をすまそうとしても、クミは自分の好きなプリンの種類なんて一言も声に出さなかった。声に出そうとしなければ、十三秒後もなにも聴こえない。自分が聴こえないのだから、ヒロにしてもそうなのだ。
それがどうだろう。
魚津クミは目を輝かせて、ヒロの買ったプリンを手に取った。
「これ、コンビニで新発売のプリンですね! 本当に食べたかったんです!」
彼女の甲高い声を聞いて、ヒロが得意気な顔をこちらに向けてくる。
意外とヒロも子供っぽい――と雪は思う事にした。
雪はプリンを頬張るクミに話しかける。
「クミちゃん、元気でしたか?」
「ほ……い」
ごくん、とクミは口の中のプリンを懸命に飲み込もうとする。
ここは、それほど広くもないワンルームマンション。六畳ほどのリビングはフローリングになっており、そこにローテーブルとクッションが置かれている。
ローテーブルには、クミとさつきの姉妹が肩を並べて座り、雪とヒロが向かい合って座っている。
小学生のクミはともかく、高校生の三人にこのローテーブルは狭い。ヒロは自分のプリンをテーブルに置いたまま、雪の斜め後ろで胡座をかいている。
「柳田、クミちゃんが食べてる時に話しかけるのはダメでしょ」
む、と雪はヒロに視線を送る。
少し目つきが悪くなったかもしれないが、これは負け惜しみではない、と自分に言い聞かせる。
「だ、大丈夫です」
クミは手で口を拭きながら言う。この子の白いカットソーの袖が、小さな口に触れそうだった。彼女は白のカットソーに焦茶色のゆったりとしたズボンを合わせている。
そう言えば、彼女は病室でもシンプルなトレーナーを着ていたような気がする。この子の幼い顔つきやら綺麗なツインテールの黒髪やらを見ると、もう少し子供っぽい服装の方が似合うのかもしれない。
ただし、クミが長袖に長ズボンを身につけているのは理由がある。手足に残る火傷の跡を隠すためだ。
「すみません、あたし、夢中になってプリン食べちゃったみたいで」
「別に良いですよ。それ、ヒロが熱心に選んでいましたし、そこまで喜んでもらえると、ヒロは嬉しいんじゃないですか?」
そんな風にヒロに話を振ると、彼は困ったような顔になってしまった。
「まあ、嬉しいと言えば嬉しいけど。それより、クミちゃん、元気だった?」
「全然元気です!」
ぱぁ、とクミは音が出るくらいの笑顔になる。
「ヒロさんも、それに雪さんも元気そうに見えます、ね……」
そこでクミは「あれ?」と呟いた。
彼女は少し眉根を寄せる。奇妙なものでも見つけてしまった表情にもなっているのだけど、クミがまじまじと見ているのは、紛れもなく雪の顔だった。
これは些か失礼ではないか。
「雪さん……?」
恐る恐る声をかけられる。
小学生相手に「失礼ですね」と言うのも大人気ない。
「なんですか?」
「なんだか……変わっちゃいました?」
自分でも気がつかないうちに、顔の形でも変わってしまったのだろうか。
鏑木家でお世話になってから、もう数ヶ月になる。あの家に帰れると、家政婦の山田が必ず食事を用意してくれる。和食が中心だが、時折出てくる中華や洋食も含めて味のレベルは相当高い。だからつい箸が進んでしまう。
なるほど。
少しくらい太ってしまったとしても不思議ではない。
「あたしが太って見えますか?」
「違いますっ!」クミは大袈裟に手を振りながら、慌てて叫ぶ。「雪さんは、全然太ってなんてないですから!」
そうじゃなくて、と彼女は声を詰まらせる。
「入院してた時と比べると、今の雪さんの雰囲気が、なんかちょっと違うって言うか……」
そう言われても、雪には良く理解できない。
この場にいる他の二人を交互に見る。
魚津さつきはこちらに目を合わせようともせず、ただ自分のプリンだけを見ている。スプーンで少しずつプリンを削っては、口に運んでいる。彼女はまるで興味がないのだろう。
翻ってヒロはこちらをじっと見ていた。とても優しい目だと雪は思う。口元も少し緩んで、傍目には笑っているようにも見える。だけど、本当に笑っているのかどうか。この顔は、五月に会った時からなにも変わっていない。
「まあ、柳田は変わってきたかな。前よりもちょっとだけ柔らかくなったかも……」と彼はクミに話を合わせる。
柔らかい、と言われても。自分で肌を触っても、以前と感触の違いなど分かる筈もない。
ヒロはなにを言っているのか。
「表情の事だよ。ほら、今もヘンな顔になったでしょ」
あ、と雪は思わず自分の顔を両手で触ってしまった。手のひらに頬の熱が伝わる。少し顔が熱い。
「し、失礼ですね……別に、ヘンな顔なんてしてません」
「ちゃんと自分の感情が顔に出てくるようになったって事なんだ」
なにを言って――と雪は、声にならない声を無理やり飲み込んだ。
確かに、以前はこんな風にヒロとのやり取りで、顔が熱くなる事もなかった。心臓がドクンと跳ねる事もなかったのだ。この感情は、いったい自分のどこから生まれたのか。
五月の連休のあの火事――あの時ならば、こんな事はなかった。ヒロと出会っても、なにも感じなかった筈なのだ。
いや。そうじゃない。
火事に遭遇する前もそうだった。自分の感情を意識する事はなかった。
そう。自分の意識を限りなく透明にする術を覚えていた。そうでなくては、あの頃の自分の存在は直ぐになくなってしまいそうだったから。ちゃんと前を見て、自分の足で歩く事ができていたのは、そうして自分の意識が透明になっていたからだ。
雪の目の前に広がるのは、透明な世界。特別な場所。忌まわしい場所。だからこそ、雪自身の意識の中で全ての色を消してしまった。汚いものを見ないようにするために、精一杯だったのだ。
あの時、自分と同じ場所にいた人間は限られている。
今はもうみんな死んでしまった。
雪の母もそうだ。
あの火事の日。彼女は業火に焼かれ、その体と共に、心に深く刻まれた大罪を全て灰に変えてしまった。
それに、あの人も――。
ヒロがコンビニエンスストアで買おうとしたのは、有名なフレンチレストランのパティシエが監修したと言うプリンだ。
魚津クミがそんな豪華なプリンを待ち望んでいるとは思えない。
病室であの子が喜んで食べていたプリンは、もっとシンプルだった。例えば、大手の製菓メーカーが大量生産しているようなプリン。コンビニでも売っているけれど、スーパーのような量販店にも必ず置いてあるような安心のナショナルブランド。
「多分、これじゃないですよ」
雪は、レジに行く前のヒロに忠告する。
「いや、クミちゃんは絶対喜ぶから」
ヒロはそう断言すると、脇目も振らずにレジに並んでしまった。
学校から、ここに来るまでの間。雪の頭の中には、さつきやクミの声が何度も響いていた。それはもちろん、彼女たちの十三秒先の声だった。だけどいくら頭の中の声を拾おうと集中しても、懸命に耳をすまそうとしても、クミは自分の好きなプリンの種類なんて一言も声に出さなかった。声に出そうとしなければ、十三秒後もなにも聴こえない。自分が聴こえないのだから、ヒロにしてもそうなのだ。
それがどうだろう。
魚津クミは目を輝かせて、ヒロの買ったプリンを手に取った。
「これ、コンビニで新発売のプリンですね! 本当に食べたかったんです!」
彼女の甲高い声を聞いて、ヒロが得意気な顔をこちらに向けてくる。
意外とヒロも子供っぽい――と雪は思う事にした。
雪はプリンを頬張るクミに話しかける。
「クミちゃん、元気でしたか?」
「ほ……い」
ごくん、とクミは口の中のプリンを懸命に飲み込もうとする。
ここは、それほど広くもないワンルームマンション。六畳ほどのリビングはフローリングになっており、そこにローテーブルとクッションが置かれている。
ローテーブルには、クミとさつきの姉妹が肩を並べて座り、雪とヒロが向かい合って座っている。
小学生のクミはともかく、高校生の三人にこのローテーブルは狭い。ヒロは自分のプリンをテーブルに置いたまま、雪の斜め後ろで胡座をかいている。
「柳田、クミちゃんが食べてる時に話しかけるのはダメでしょ」
む、と雪はヒロに視線を送る。
少し目つきが悪くなったかもしれないが、これは負け惜しみではない、と自分に言い聞かせる。
「だ、大丈夫です」
クミは手で口を拭きながら言う。この子の白いカットソーの袖が、小さな口に触れそうだった。彼女は白のカットソーに焦茶色のゆったりとしたズボンを合わせている。
そう言えば、彼女は病室でもシンプルなトレーナーを着ていたような気がする。この子の幼い顔つきやら綺麗なツインテールの黒髪やらを見ると、もう少し子供っぽい服装の方が似合うのかもしれない。
ただし、クミが長袖に長ズボンを身につけているのは理由がある。手足に残る火傷の跡を隠すためだ。
「すみません、あたし、夢中になってプリン食べちゃったみたいで」
「別に良いですよ。それ、ヒロが熱心に選んでいましたし、そこまで喜んでもらえると、ヒロは嬉しいんじゃないですか?」
そんな風にヒロに話を振ると、彼は困ったような顔になってしまった。
「まあ、嬉しいと言えば嬉しいけど。それより、クミちゃん、元気だった?」
「全然元気です!」
ぱぁ、とクミは音が出るくらいの笑顔になる。
「ヒロさんも、それに雪さんも元気そうに見えます、ね……」
そこでクミは「あれ?」と呟いた。
彼女は少し眉根を寄せる。奇妙なものでも見つけてしまった表情にもなっているのだけど、クミがまじまじと見ているのは、紛れもなく雪の顔だった。
これは些か失礼ではないか。
「雪さん……?」
恐る恐る声をかけられる。
小学生相手に「失礼ですね」と言うのも大人気ない。
「なんですか?」
「なんだか……変わっちゃいました?」
自分でも気がつかないうちに、顔の形でも変わってしまったのだろうか。
鏑木家でお世話になってから、もう数ヶ月になる。あの家に帰れると、家政婦の山田が必ず食事を用意してくれる。和食が中心だが、時折出てくる中華や洋食も含めて味のレベルは相当高い。だからつい箸が進んでしまう。
なるほど。
少しくらい太ってしまったとしても不思議ではない。
「あたしが太って見えますか?」
「違いますっ!」クミは大袈裟に手を振りながら、慌てて叫ぶ。「雪さんは、全然太ってなんてないですから!」
そうじゃなくて、と彼女は声を詰まらせる。
「入院してた時と比べると、今の雪さんの雰囲気が、なんかちょっと違うって言うか……」
そう言われても、雪には良く理解できない。
この場にいる他の二人を交互に見る。
魚津さつきはこちらに目を合わせようともせず、ただ自分のプリンだけを見ている。スプーンで少しずつプリンを削っては、口に運んでいる。彼女はまるで興味がないのだろう。
翻ってヒロはこちらをじっと見ていた。とても優しい目だと雪は思う。口元も少し緩んで、傍目には笑っているようにも見える。だけど、本当に笑っているのかどうか。この顔は、五月に会った時からなにも変わっていない。
「まあ、柳田は変わってきたかな。前よりもちょっとだけ柔らかくなったかも……」と彼はクミに話を合わせる。
柔らかい、と言われても。自分で肌を触っても、以前と感触の違いなど分かる筈もない。
ヒロはなにを言っているのか。
「表情の事だよ。ほら、今もヘンな顔になったでしょ」
あ、と雪は思わず自分の顔を両手で触ってしまった。手のひらに頬の熱が伝わる。少し顔が熱い。
「し、失礼ですね……別に、ヘンな顔なんてしてません」
「ちゃんと自分の感情が顔に出てくるようになったって事なんだ」
なにを言って――と雪は、声にならない声を無理やり飲み込んだ。
確かに、以前はこんな風にヒロとのやり取りで、顔が熱くなる事もなかった。心臓がドクンと跳ねる事もなかったのだ。この感情は、いったい自分のどこから生まれたのか。
五月の連休のあの火事――あの時ならば、こんな事はなかった。ヒロと出会っても、なにも感じなかった筈なのだ。
いや。そうじゃない。
火事に遭遇する前もそうだった。自分の感情を意識する事はなかった。
そう。自分の意識を限りなく透明にする術を覚えていた。そうでなくては、あの頃の自分の存在は直ぐになくなってしまいそうだったから。ちゃんと前を見て、自分の足で歩く事ができていたのは、そうして自分の意識が透明になっていたからだ。
雪の目の前に広がるのは、透明な世界。特別な場所。忌まわしい場所。だからこそ、雪自身の意識の中で全ての色を消してしまった。汚いものを見ないようにするために、精一杯だったのだ。
あの時、自分と同じ場所にいた人間は限られている。
今はもうみんな死んでしまった。
雪の母もそうだ。
あの火事の日。彼女は業火に焼かれ、その体と共に、心に深く刻まれた大罪を全て灰に変えてしまった。
それに、あの人も――。

