豹紋もどき

 初夏の匂いが漂っている。病室の窓は数センチほど開いており、レースカーテンが僅かに揺れている。隙間から入り込む微風が新緑の香りを運んでくる。
 魚津(うおつ)クミはすぅとその風を吸い込んでから、そっと上体を起こす。
 クミは十一歳になったばかり。小学校の同級生の中でも体は小さい方だ。だから、ベッドの上からでは、窓外の景色などほとんど見えない。
 彼女の目に映っているのは、薄い水色の空だけ。
 今日は晴れている。ただし目の覚めるような五月の青空ではない。まだ日が高いのにこれほど青が薄いのは、白い靄が一面を覆っているからなのか。
 まさか、あの靄は「煙」などではあるまい――そう考えた時、背筋にぞくりと怖気が走った。
「どうしたの、クミ?」
 側にいた母――魚津美樹(うおつみき)が、こちらを覗き込んでくる。
 ベッドの側にあるパイプ椅子。彼女はそこから僅かに腰を浮かべている。
「ううん。なんでもないよぅ」
 クミは敢えて眠そうな声で答える。
 自分の事で悩ませてはいけない――などと小学生にしては、やけに殊勝な気持ちになって、母に笑顔まで見せる。
 一人娘の入院で心労が祟ったのか。美樹の目には隈ができており、顔も些かやつれている。
「そう」
 彼女は僅かに相好を崩す。ただ、その目だけは笑っていないようにも見える。
 まさか、こちらの心の中まで覗かれてしまったのか――とクミはゴクリと唾を飲み込んだ。
 いや。そうじゃない。恐らく、美樹にはぼんやりとしていると思われたのだ。
 クミはまだ子供だ。ぼんやりしていても仕方がない。 入院に必要だからと、美樹が慌てて買ってきたパジャマ――シンプルなライトグリーンのトレーナーを着ているのだけど、これはどこか大人っぽくって、クミに似合っていない。どちらかと言えば、花柄かデフォルメした動物――例えば、有名なテーマパークのクマのキャラクター――なんかが入っているカットソーの方が様になっていたのに、とクミは思う。
 だけど。
 今のクミは、ぼんやりなどしていられない。彼女は母の一挙手一投足どころか、僅かな表情の変化も見逃すまいと、じっと息を潜めている。不安で心が押し潰されそうだ。胃の腑を抉るような痛みなど、目の前の肉親にとても伝えられない。たかが十一年の人生では、伝える術など身につけられるものではない。
「まだ痛みはあるの?」
 うーん、とクミは天井を見ながら唸る。
「ちょっとだけ」クミは正直に言う。「でも、これくらい我慢できるから」
 痛みは問題ない。強いて言えば、包帯を巻いた上半身、特に背中の辺りが少しむず痒い。この痒みだけなら気にはならないのだから、嘘は言ってない。
「我慢しちゃダメよ」
「してないよ」
「ちゃんと痛いなら、痛いって言わないと、ママは分からないでしょ!」
「そんなに痛くないよ。全然平気」
「ヘンなところで遠慮しないで!」
 子供なんだから、と美樹は小声で零す。
 こうなると、彼女はわかり易い。どうやら不機嫌になる一歩手前にいるようだ。
「痛かったら、先生に痛み止めのお薬を貰っても良いんだから。クミが我慢する事ないのよ――」
 美樹の目は見開かれている。
 こちらを見ているようで、全く見ていない。
「なんでクミが我慢するの! あの火事で死ぬところだったのよ! 本当に我慢するのは、この子にこんな目に遭わせたあの人の方なの――」
 こうなれば、美樹の意識はあの煙の中に行ってしまったのかもしれない。
「わ、分かったぁ!」
 無理に声を出すと喉が痺れるようだ。体に負った火傷が、果たして喉にどんな影響を及ぼしているのか。クミには分からない。
 だけど、母が不機嫌になる――たったそれだけで、クミは胃の腑を抉られるような気持ち悪さを覚えてしまうのだ。
「でもねでもね、本当にそんなに痛くないよ……」
 ふう、と美樹はため息を吐く。突然の癇癪が治まって、ようやく正気に戻ったようだ。彼女は眉間に手を軽く当てて、パイプ椅子にストンと腰を下ろした。
「まあ、良いわ」
 感情の抜けたその声を聞いて、クミはホッとする。
「じゃあ、なにか食べる?」美樹は足元に置いたバックをゴソゴソと探る。「お菓子とかあったかしら……」
 そう大きくもない彼女のバッグの中は、お世辞にも整理されているようには思えない。何枚ものレシート。ポーチからはみ出したファンデーション。それに数本のリップやらが無造作に詰め込まれている。
 クミにしてみれば、ずっと寝ていたのだから、食欲なんてほとんどない。甘いものが欲しい訳でもない。それでも、今はなにも言わず、なにも言えず、バッグを弄る母の頭をじっと見ているだけ。
 そうでなければ、また彼女は現実を見失うのではないか。
「ねぇ、クミ」
 美樹はバッグを探る手を止めて、目を下げたまま言う。
「な、なに?」
 クミの体の中を、ゾワゾワとした気持ちの悪い感覚が走り抜けた。
「……パパの事、なんだけどね――」
 その時。
 バンッ、と直ぐ近くで鈍い音がした。
 人気のない病室で、突然そんな音がするとは思わなかったのだから、クミの心臓は部屋の天井近くまで跳ね上がった。
 美樹も驚いた顔になっている。
 先ほどまで開いていたガラス窓が閉められている。
 レースカーテンはだらりと下がり、複雑な幾何学模様をこちらに晒している。
 窓の近くに、一人の少女が立っている。彼女の手はまだ窓に触れている。包帯の巻かれた細い手だった。
 この少女が音もなく窓際に近づいて、ガラス窓を閉めたのだ。少女の茶褐色のストレートの髪は肩下まで流れている。鳶色の目はこちら捉えている。とても小さな顔。そこに桜色の唇が、ぼつんと点在している。
 その唇が、僅かに動いた。
「……すみません」少女は静かに言う。
 少女は十代前半か。あどけなさを残してはいるものの、可愛らしいと言うよりも、大人びた美しさの方が優っている。
「寒くなってきたので、窓を閉めただけです」
 少女は感情のない声で続ける。無地の白いTシャツに、グレーのショートパンツを合わせただけの姿。本人はまるで気にしていないようだが、そんな格好でいれば肌寒くもなる。
 それでも――。
「ええ……そうね」
 美樹の声は少し震えている。彼女は、この少女の細い腕や太腿に目を奪われているようだった。
 少女の包帯の巻かれ方は尋常ではない。グルグルと肌を覆うように何重も包帯が巻かれており、白いミイラのようにも見えるのではないか。この格好で肌寒いと言うのも、なにかの間違いではないかと思えてくる。
「あ、そう言えば――」
 美樹は少し高い声を出す。慌ててバッグの中から白い不織布のマスクを取り出して、そっと口に当てる。
 新型の感染症が世界的にまん延し始めて、はや三年。院内の感染症対策として、医師や看護師だけではなく、入院患者や関係者も含めて、ここでは皆マスクの着用が義務づけられている。
「ごめんなさい。マスクをつけるのを忘れてたわ」
「…………」
 少女は軽く頭を下げる。彼女もマスクをつけていないのだから、それを詫びたのかもしれない。
 ただ、この病院のほとんどの入院患者はいつもマスクを外している。
 クミにしてもベッドの中にいる時は、マスクに手を伸ばさない。単に息苦しいから嫌なのだ。それで医師や看護師からも注意された事はない。感染症を経験し三年目になる緩みと言うのか、対策疲れがあるのかもしれない。
 少女はぺたぺたとサンダルを鳴らして、自分のベッドに戻っていく。
 この病室は女性専用であり、三つのベッドが置いてある。現在使用しているのは、窓側のクミのベッドと廊下側の少女のベッドだけ。中央のベッドは誰も使用していない。
 同室の少女からは、いつも物音一つ聞こえてこない。見舞客もそう多くはない。時折、彼女の兄のような少年がやってきて、ポツンと枕元に佇んでいる。
 クミがそっと目を向けると、少女は既にベッドの上で横になっていた。
 彼女はじっと天井を眺めている。
「ねぇ、クミ。ママはそろそろ帰るわ」
 不意に母から声をかけられて、クミは心臓が跳ねる思いがした。
 美樹はそっと腰を上げて、肩にカバンを引っ掛ける。
「明日は、パパがお見舞いに来るから」
 クミが入院して以来、母と父は交互で病室に見舞いにくる。二人とも会社勤め。ダブルインカムであり、心奥では子供よりも仕事が大事なパワーカップルでもある。
 そのパワーが、こうもクミを不安にさせるのか。
 クミは恐る恐る声を絞り出す。
「あのね、ママ……」
「なに、どうしたの?」美樹は振り向いた。
「ママは、クミの事、好き?」
 彼女は一瞬呆気に取られた顔になった。そして、直ぐにプッと吹き出した。
「当たり前じゃない」美樹は可笑しそうに言う。「ママはクミの事、本当に大好きよ」
「愛してる?」
 え、と美樹は目を丸くした。
「パパはクミにそう言ってくれたよ」
 ああ、と美樹は苦笑を浮かべる。
 彼女は大きなため息を吐いてから、クミに向かって軽く手を振る。
「じゃあ、ママはもう帰るからね」
「……うん」
 クミは小さく頷く。寒くもないのに、体が震えてしまう。
 得体の知れない不安の波が、胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。