「全然待ってないよ」
彼はそう言って、少しだけ相好を崩す。
「じゃあ行こう」とさつきは促す。
「うん」
なんでもないやり取り。
なのに、彼女は違和感を覚えてしまう。
全く無駄のない短い会話は、決まり事のようだ。予定調和とも言える。自分に与えられた役割を淡々とこなすように、ヒロはこちらのペースに合わせて並んで歩く。
教室を出て、階段を降りて、昇降口に向かう。この一連の流れもとても自然でスムーズ。脚本をなぞるように現実の物語が進んでいく。
そんな感覚が、奇妙なのだ。
ヒロと一緒にいる時間の全てが、こうもスムーズであると言う訳ではない。ただ、彼と交わすなんでもないやり取りの中で、時としてなにか違和感を覚えてしまう事がある。この不確かな違和感の正体はなんなのか。さつきにはまだ理解できない。
理解できない違和感と言えば、もうひとつ。
彼女も、そうだ。
高等部の将校口のドアの近くに、小柄な少女が立っている。茶褐色のロングストレートの綺麗な髪が、外からの微風に揺れている。中等部三年生の柳田雪――彼女が、高等部の昇降口の近くにいる。
雪がそこにいる事が違和感の正体などではない。さつき自身が、待ち合わせのために雪にここまで来るように言ったのだ。
雪も白い不織布のマスクを外している。これも別にヘンではない。大半の生徒も教師がいない場所なら、中等部の生徒も校則をあまり守らない。
雪は、チラとこちらを見る。
そう。
そのタイミングこそが、気味が悪いのだ。
いつから雪はそこで立っていたのか良く分からない。ただ、彼女はまるでさつきたちが姿を見せるタイミングを知っていたかのように、視線を向けてきたのだ。
もちろん、これは考え過ぎなのかもしれないとさつきは思う。
彼が「お疲れ」と言うと、雪は「お疲れ様です」と軽く頷く。
ただ、雪はこちらに向けた視線を外そうとしない。なにを期待しているのだろう。
それとも、こちらから、彼女になにか「特別な事」でも言わなければならないのだろうか。
さつきも自分の靴を履いて、雪に近づいていく。
「待たせた?」
「待ってません。今来たところです」
雪は淡々と答える。
考え過ぎだったのかもしれない。
それでも今日は確かに特別だ。なぜならこれからさつきが一人で暮らすワンルームマンションまで彼らを連れていって、小学生の義妹――魚津クミに会わせる約束をしているのだから。
二人に向かって「行こうか」と声をかけようとした瞬間、カバンのポケットに入ったスマートフォンが振動した。
スマートフォンを取り出して、直ぐに画面を確認する。ショートメッセージが入っている。差出人はクミだ。
小学生のクミが使っているのは、子供用の携帯電話。特定の人にだけメッセージを送信できる簡単な機能がついている。いつの間にかさつきの携帯番号もそこに登録されており、ごく自然に彼女からメッセージが届くようになっていた。さつきが番号を教えた記憶はないのだから、両親のいずれかが設定したのだろう。
『今、お姉ちゃんのマンションにいます』
クミは既にさつきの部屋にいるらしい。
小学生の女の子に部屋の前で座って待たれても、近所からヘンな目で見られてしまう。彼女に鍵を渡しておいたのだけど、これが正解だったようだ。
クミは律儀に連絡を入れてくる。あの子は思ったよりも大人びており、良い意味で子供らしくないのかもしれない。
再び携帯が振動する。
やはりクミからのメッセージだ。
『お客さんに出すお菓子がどこにもありません。棚の中にも。冷蔵庫の中にも』
ん? とさつきは目を細める。
どうやらあの子は勝手に人の家の棚や冷蔵庫の中を探ったらしい。他人の家の中を勝手に詮索する事はマナー違反だと教育しなければならないようだ。
とは言え。
義妹のクミを、今さら他人と呼ぶのには気が引ける。
『だから、お姉ちゃん。お菓子を買ってきてください』
客用の茶菓子を用意せよ。そう言ってきているのだ。
ここまでくると子供らしくないどころか、粘着質の上司からパワハラのような指示を出されているようにも思えてしまう。いや。指示と言えば、さつきにクミの面倒を見るように頼んできたのは両親だった。
もちろんこれはパワハラの類ではない。むしろその逆だ。
再婚したばかりのクミの父とさつきの母。その二人から、最近、クミが小学校の同級生たちにいじめられていると打ち明けられた事を思い出す。
いじめの原因は、クミの両親の離婚のようだった。もう少し具体的に言えば、その離婚前の家族旅行で宿泊した温泉旅館が火事に見舞われ、クミが酷い大火傷を負ってしまった事にもあった。
あの旅館がいわくつきであったのも災いだった。SNSでは、旅館の炎上にはなにかの呪い――ちょうどそこが珍しい蝶の生息地だったようだから、蝶の呪いなんが関係しているとか、していないとか、様々な噂が流れていた。その呪いの影響で、クミの両親は離婚してしまい、娘には火傷の跡――呪詛の刻印がついたとされて、イジメの標的になってしまったらしい。
さつきにしても、そんなところで火傷を負うなんて、なんて運のない子だと思う。
とは言え。
義妹の面倒を見続けて、大切なバレエの練習の時間が失われるのは嫌だ。自分はヤング・ケアラーにはなりたくない。なにも両親の離婚などと言家庭内の悲劇を経験しているのはクミだけではないのだ。
はぁ、とさつきはため息を吐いた。
近くにいるヒロと雪の顔を交互に見る。
「あたしの部屋に行く前にさ、ちょっとだけ寄りたいところがあるけど良い?」
瞬間、雪と視線がピタリと合う。
彼女の目は「どこに行くのか?」と淡々と訊いてくるようだった。
「コンビニに寄りたいのよ」
雪のその態度には、やはり違和感を覚えた。
この短い会話のなにがおかしいと思ったのか。自分の感覚なのに、さつきにはその違和感の正体がどうしても理解できない。
「良いですよ」雪の口調は平坦なものだった。「あたしたちも買いたいものがありますから」
「へぇ、なに?」
「お菓子です。クミちゃんのお土産ですけど」
ドクン、とさつきの心臓が跳ねる。
そうか。
これが違和感の正体なのかもしれない。
この少女は、どう言う訳かこちらの心奥を見透かしてくるのだ。こうなると、彼女からはもう気味の悪さしか覚えない。
これは、そう。まるで鏑木ヒロと同じ雰囲気が漂っているように感じてしまう。
「ヒロ、コンビニでプリンを買っていきましょう」
「うん、良いよ」
「クミちゃんはプリン大好きでした」
「そうだね」
「さつきさんの分と、あたしの分も買ってもらえると嬉しいです」
「てか、ぼくが買うのか……。まあ、それくらいなら出せるけど」
ヒロは苦笑を浮かべる。まるで恋人から甘えられて、嬉しそうに困っている姿にも見える。勝手にしてくれ、とさつきは思いたくもなる。
しかし良く考えると、この二人の関係も違和感だらけ――と言うのか、むしろ歪なものなのかもしれない。
二人は恋人でもなければ、兄妹でもない。
雪は母子家庭だったのだけど、最近、母を亡くしてしまった。その亡母は鏑木家で家政婦をして働いていたようだ。それが縁となって、身寄りのない雪の保護者となっているのが、ヒロの母――鏑木里佳子らしい。
友だちの少ないさつきまで、鏑木家の些細な噂が耳に入ってくる。鏑木ヒロと柳田雪の不可解な共通点が、周囲の人たちの好奇心を刺激してしまうからだ。
不可解な共通点――それは、ヒロの父と同じように、雪の母も五月の連休中に温泉旅館の火事で焼死してしまったと言う事実。やはりこの二人は、そこでなにか悪いものにでも取り憑かれてしまったのか。
いやいや。とさつきは頭を振る。
クミもあの火事に巻き込まれてしまったせいで、呪われていると言われてイジメを受けているのだ。本気で呪いを信じてしまうなど、いじめっ子と同じ発想になってしまった。
「どうかしましたか?」
雪はキョトンと首を傾げている。
今の彼女には違和感を感じない。
「な、なにが……?」
「行かないんですか? コンビニ」
彼女は呆れたような声で言う。
ヒロもこちらを伺っている。
「い、行くわよ!」
さつきは吐き捨てるように叫んだ。スマートフォンをカバンのポケットに押し込む。そのままこの二人を振り切るくらいの足早になって、校門まで一直線に走ってしまった。
彼はそう言って、少しだけ相好を崩す。
「じゃあ行こう」とさつきは促す。
「うん」
なんでもないやり取り。
なのに、彼女は違和感を覚えてしまう。
全く無駄のない短い会話は、決まり事のようだ。予定調和とも言える。自分に与えられた役割を淡々とこなすように、ヒロはこちらのペースに合わせて並んで歩く。
教室を出て、階段を降りて、昇降口に向かう。この一連の流れもとても自然でスムーズ。脚本をなぞるように現実の物語が進んでいく。
そんな感覚が、奇妙なのだ。
ヒロと一緒にいる時間の全てが、こうもスムーズであると言う訳ではない。ただ、彼と交わすなんでもないやり取りの中で、時としてなにか違和感を覚えてしまう事がある。この不確かな違和感の正体はなんなのか。さつきにはまだ理解できない。
理解できない違和感と言えば、もうひとつ。
彼女も、そうだ。
高等部の将校口のドアの近くに、小柄な少女が立っている。茶褐色のロングストレートの綺麗な髪が、外からの微風に揺れている。中等部三年生の柳田雪――彼女が、高等部の昇降口の近くにいる。
雪がそこにいる事が違和感の正体などではない。さつき自身が、待ち合わせのために雪にここまで来るように言ったのだ。
雪も白い不織布のマスクを外している。これも別にヘンではない。大半の生徒も教師がいない場所なら、中等部の生徒も校則をあまり守らない。
雪は、チラとこちらを見る。
そう。
そのタイミングこそが、気味が悪いのだ。
いつから雪はそこで立っていたのか良く分からない。ただ、彼女はまるでさつきたちが姿を見せるタイミングを知っていたかのように、視線を向けてきたのだ。
もちろん、これは考え過ぎなのかもしれないとさつきは思う。
彼が「お疲れ」と言うと、雪は「お疲れ様です」と軽く頷く。
ただ、雪はこちらに向けた視線を外そうとしない。なにを期待しているのだろう。
それとも、こちらから、彼女になにか「特別な事」でも言わなければならないのだろうか。
さつきも自分の靴を履いて、雪に近づいていく。
「待たせた?」
「待ってません。今来たところです」
雪は淡々と答える。
考え過ぎだったのかもしれない。
それでも今日は確かに特別だ。なぜならこれからさつきが一人で暮らすワンルームマンションまで彼らを連れていって、小学生の義妹――魚津クミに会わせる約束をしているのだから。
二人に向かって「行こうか」と声をかけようとした瞬間、カバンのポケットに入ったスマートフォンが振動した。
スマートフォンを取り出して、直ぐに画面を確認する。ショートメッセージが入っている。差出人はクミだ。
小学生のクミが使っているのは、子供用の携帯電話。特定の人にだけメッセージを送信できる簡単な機能がついている。いつの間にかさつきの携帯番号もそこに登録されており、ごく自然に彼女からメッセージが届くようになっていた。さつきが番号を教えた記憶はないのだから、両親のいずれかが設定したのだろう。
『今、お姉ちゃんのマンションにいます』
クミは既にさつきの部屋にいるらしい。
小学生の女の子に部屋の前で座って待たれても、近所からヘンな目で見られてしまう。彼女に鍵を渡しておいたのだけど、これが正解だったようだ。
クミは律儀に連絡を入れてくる。あの子は思ったよりも大人びており、良い意味で子供らしくないのかもしれない。
再び携帯が振動する。
やはりクミからのメッセージだ。
『お客さんに出すお菓子がどこにもありません。棚の中にも。冷蔵庫の中にも』
ん? とさつきは目を細める。
どうやらあの子は勝手に人の家の棚や冷蔵庫の中を探ったらしい。他人の家の中を勝手に詮索する事はマナー違反だと教育しなければならないようだ。
とは言え。
義妹のクミを、今さら他人と呼ぶのには気が引ける。
『だから、お姉ちゃん。お菓子を買ってきてください』
客用の茶菓子を用意せよ。そう言ってきているのだ。
ここまでくると子供らしくないどころか、粘着質の上司からパワハラのような指示を出されているようにも思えてしまう。いや。指示と言えば、さつきにクミの面倒を見るように頼んできたのは両親だった。
もちろんこれはパワハラの類ではない。むしろその逆だ。
再婚したばかりのクミの父とさつきの母。その二人から、最近、クミが小学校の同級生たちにいじめられていると打ち明けられた事を思い出す。
いじめの原因は、クミの両親の離婚のようだった。もう少し具体的に言えば、その離婚前の家族旅行で宿泊した温泉旅館が火事に見舞われ、クミが酷い大火傷を負ってしまった事にもあった。
あの旅館がいわくつきであったのも災いだった。SNSでは、旅館の炎上にはなにかの呪い――ちょうどそこが珍しい蝶の生息地だったようだから、蝶の呪いなんが関係しているとか、していないとか、様々な噂が流れていた。その呪いの影響で、クミの両親は離婚してしまい、娘には火傷の跡――呪詛の刻印がついたとされて、イジメの標的になってしまったらしい。
さつきにしても、そんなところで火傷を負うなんて、なんて運のない子だと思う。
とは言え。
義妹の面倒を見続けて、大切なバレエの練習の時間が失われるのは嫌だ。自分はヤング・ケアラーにはなりたくない。なにも両親の離婚などと言家庭内の悲劇を経験しているのはクミだけではないのだ。
はぁ、とさつきはため息を吐いた。
近くにいるヒロと雪の顔を交互に見る。
「あたしの部屋に行く前にさ、ちょっとだけ寄りたいところがあるけど良い?」
瞬間、雪と視線がピタリと合う。
彼女の目は「どこに行くのか?」と淡々と訊いてくるようだった。
「コンビニに寄りたいのよ」
雪のその態度には、やはり違和感を覚えた。
この短い会話のなにがおかしいと思ったのか。自分の感覚なのに、さつきにはその違和感の正体がどうしても理解できない。
「良いですよ」雪の口調は平坦なものだった。「あたしたちも買いたいものがありますから」
「へぇ、なに?」
「お菓子です。クミちゃんのお土産ですけど」
ドクン、とさつきの心臓が跳ねる。
そうか。
これが違和感の正体なのかもしれない。
この少女は、どう言う訳かこちらの心奥を見透かしてくるのだ。こうなると、彼女からはもう気味の悪さしか覚えない。
これは、そう。まるで鏑木ヒロと同じ雰囲気が漂っているように感じてしまう。
「ヒロ、コンビニでプリンを買っていきましょう」
「うん、良いよ」
「クミちゃんはプリン大好きでした」
「そうだね」
「さつきさんの分と、あたしの分も買ってもらえると嬉しいです」
「てか、ぼくが買うのか……。まあ、それくらいなら出せるけど」
ヒロは苦笑を浮かべる。まるで恋人から甘えられて、嬉しそうに困っている姿にも見える。勝手にしてくれ、とさつきは思いたくもなる。
しかし良く考えると、この二人の関係も違和感だらけ――と言うのか、むしろ歪なものなのかもしれない。
二人は恋人でもなければ、兄妹でもない。
雪は母子家庭だったのだけど、最近、母を亡くしてしまった。その亡母は鏑木家で家政婦をして働いていたようだ。それが縁となって、身寄りのない雪の保護者となっているのが、ヒロの母――鏑木里佳子らしい。
友だちの少ないさつきまで、鏑木家の些細な噂が耳に入ってくる。鏑木ヒロと柳田雪の不可解な共通点が、周囲の人たちの好奇心を刺激してしまうからだ。
不可解な共通点――それは、ヒロの父と同じように、雪の母も五月の連休中に温泉旅館の火事で焼死してしまったと言う事実。やはりこの二人は、そこでなにか悪いものにでも取り憑かれてしまったのか。
いやいや。とさつきは頭を振る。
クミもあの火事に巻き込まれてしまったせいで、呪われていると言われてイジメを受けているのだ。本気で呪いを信じてしまうなど、いじめっ子と同じ発想になってしまった。
「どうかしましたか?」
雪はキョトンと首を傾げている。
今の彼女には違和感を感じない。
「な、なにが……?」
「行かないんですか? コンビニ」
彼女は呆れたような声で言う。
ヒロもこちらを伺っている。
「い、行くわよ!」
さつきは吐き捨てるように叫んだ。スマートフォンをカバンのポケットに押し込む。そのままこの二人を振り切るくらいの足早になって、校門まで一直線に走ってしまった。

