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高等部二年四組の担任は、どちらかと言えば口下手な方だ。彼の話はずいぶん短い。特に授業後のホームルームの時間では、事務連絡だけを口にして話が終わってしまう。
今日の彼の話も極めてシンプルなものだった。
明日から月が変わり十月になる。この学校では十月の一ヶ月間は衣替えの移行期間になるため、夏用のほか、冬用の制服も着用可能になる。そんな誰もが分かっている些細な規則を再確認しただけだった。
担任がいなくなると、室内の空気が弛緩する。
何人かのクラスメイトたちは、白い不織布のマスクを顎に引っ掛けてから、グダグダと喋り始める。それから、灰神楽とまではいかないものの、ふわりと埃の粒子がそこかしこに舞うくらいには同級生たちが動き出す。授業は終わったのだから、大半の生徒は、部活に行くにしろ、そのまま帰宅するにしろ、取り敢えず教室から出ていってしまう。
掃除当番の数人は、教室の後ろに立つ古いロッカーまでダラダラと歩いていく。そこに掃除道具が収められているのだけど、誰一人先を急がない。
魚津さつきは、自席に座ったままだ。中央の列の前から三番目。教室のヘソのような位位置。そこで掃除当番の人たちを目で追っている。彼らが後ろの席に近づくと、窓際の最後尾の席の近くに同級生と目が合ってしまった。
さつきは「チッ」と舌打ちをする。
窓際の席にいる鏑木ヒロが、こちらを見ていた。
彼はもうマスクをつけていない。ヒロは肩にカバンを引っ掛けて立っている。
いや。立っていると言うよりも、机に腰を軽く乗せている。
彼はいつからこちらを見ていたのか?
さつきは目を下げる。
ああ、本当に面倒くさい。
そんな愚痴を飲み込みながら、彼女も自分のマスクを外す。こんなものをいつまでもつけていたら、唇の周りが痒くてたまらない。マスクはカバンの中に突っ込んでおく。
鏑木ヒロは、本当にヘンなヤツなのだ。気味が悪いと言っても良い。もう数ヶ月も彼と共に過ごしたこのクラスの連中なら、そんな彼の雰囲気を理解してくれるに違いない。ただし、さつきにしても、ここの同級生たちとは仲良くないのだけど。
ヒロの外見は、見るに堪えないくらい醜悪だ――と言う訳ではない。
無造作に伸びた髪で隠れたりもするが、彼の顔は少し童顔のきらいはあるものの、むしろ綺麗だと思っている。すらりとした細身の体。身長もクラスの男子の中では高い方。遠くで見る分には良い。少なくとも不快にはならない。
それでも鏑木ヒロは、どこか不気味な存在だった。彼の外見よりも、雰囲気が独特なのかもしれない。
ヒロを特別なものにしているもの。その一つに、クラスメイトたちが囁く陰口と言うのか――噂話のようなものがある。噂は彼の家族にまつわるものだった。友だちなどほとんどいないさつきですら、一度は耳にした事がある。
彼の実家はとても裕福らしい。実父は起業家であり、二十代の後半でIT企業を立ち上げた。主力商品は、顧客管理情報処理のためのビジネス向けクラウドコンピューティング・サービスであり、二十年ほどの間に国内でも多くの顧客――そのほとんどが、中小企業や個人事業主だった――を獲得していった。売上高で言えば、県内トップの上場企業まで成長している。地元テレビ局のニュース番組のニスポンサー企業でもあり、テレビCMも頻繁に流されているので、この地域で知らない人はほとんどいない。
この企業は、数年前から他の業種の投資も積極的に進めているらしい。
最近では富裕層向けのリゾート施設の開発や、郊外の温泉旅館のリニューアルを行う会社の筆頭株主になったとメディアに報じられていた。社長――つまりヒロの父親は、地元新聞社のインタビューで、「開発投資は地域経済を活性化するものであり、自分に取っては、育ててくれた郷土への恩返しの一つだ」と誇らしげに語っていた。
他方、一代で巨大な資産を築いた勝ち組には、他人からの妬みや嫉みが執拗にまとわりつく。嫉妬のような負の感情に取りつかれた人たちは、新興の資産家に対して批判めいた噂をいくつも作り出していた。
例えば、彼の会社は地方自治体へのクラウドサービスを一手に引き受けている。そのため、県知事や市長と鏑木社長との蜜月ぶりは、公然の秘密となっている――とか。
鏑木社長の総収賄や法人税の脱税の疑惑などは、ここ数年、何度も浮かんできては消えている――とか。
加えて、そんな無数の噂は、父親の人格まで攻撃している。パワハラやセクハラのエピソードは無数にある。だけどそれはまだ序の口であり、果てはロリコン、小児性愛者とまで疑われている。鏑木家の社長が、少女と手をつないでホテルに入っていった――などと言う目撃談まで流れ出す始末だった。
そんな悪名が祟ったのか。
さつきも詳しくは知らないのだけど、鏑木夫妻――ヒロの両親の関係は、もうずいぶん前から破綻していたらしい。
そして、今年の五月。
鏑木家は、実に呆気なく当主を失った。
それは家族旅行であったらしい。鏑木社長の会社が再開発した山間部の温泉旅館。五月の連休を利用して、鏑木社長は妻と一人息子を連れて、そこの最上級の部屋に滞在していた。彼らが滞在していたまさにその日の深夜に、温泉旅館は火災に見舞われた。焼け落ちる客室から不運にも逃げ遅れたのは、鏑木家の中では鏑木社長だけだった。
鏑木ヒロと母の里佳子は無事避難できたと言う。
ただし、母親の里佳子は、心に障害を負ったようだった。口さがのない人たちの間では、それは火事で夫を失ったトラウマなんかではなく、夫の死を知って、莫大な遺産を相続できると狂喜乱舞したせいだと言われている。
いずれにせよ、不幸だったのは鏑木ヒロだ。彼は父と共に、母までも失ってしまった。これだけでもヒロから漂う空気は不穏なものになるだろう。
ただし、彼が不穏であるのはそれだけではない。
この少年の近くにいると、奇妙な違和感を覚える事があるのだ。不安感と言っても良い。
今も教室の隅に佇むヒロの姿を見ると、なにやらこちらの心の中――もしくは心の声と言った方が良いのか――それを知られてしまった気分になってしまう。そして、訳もなく鳥肌が立つ。
さつきはスッと立ち上がる。
彼女はもうカバンに教材などを詰め込んでいる。もうさっさと帰ってしまいたくもなるだけど、今日に限っては特別な予定が入っている。
これは実に面倒くさい。しかし予定を入れたのは、当のさつき本人だ。それに今日済ませておかなければ、また初めから予定を入れ直さなければいけない。そちらの方がよほど手間だ。
こうなってはもう仕方ない。
声にならない声を飲み込んで、彼女はカバンを手にして歩いていく。目指すは、教室のドアとは反対の方向。鏑木ヒロの席まで近づいていく。
ヒロはなにも言わない。ずっとこちらを眺めているだけ。
さつきが声をかけるのを待っている。こちらを見透かしているようだ。こんなところが不気味であり、ともすれば背筋が凍るくらいの恐怖を感じる。
ヒロは机の上から離れる。このタイミングは絶妙だ。さつきが声をかける瞬間を完全に理解しているようにも思えてくる。
まるで、あらかじめその声を聴いていたかのように――。
「お待たせ、鏑木」
高等部二年四組の担任は、どちらかと言えば口下手な方だ。彼の話はずいぶん短い。特に授業後のホームルームの時間では、事務連絡だけを口にして話が終わってしまう。
今日の彼の話も極めてシンプルなものだった。
明日から月が変わり十月になる。この学校では十月の一ヶ月間は衣替えの移行期間になるため、夏用のほか、冬用の制服も着用可能になる。そんな誰もが分かっている些細な規則を再確認しただけだった。
担任がいなくなると、室内の空気が弛緩する。
何人かのクラスメイトたちは、白い不織布のマスクを顎に引っ掛けてから、グダグダと喋り始める。それから、灰神楽とまではいかないものの、ふわりと埃の粒子がそこかしこに舞うくらいには同級生たちが動き出す。授業は終わったのだから、大半の生徒は、部活に行くにしろ、そのまま帰宅するにしろ、取り敢えず教室から出ていってしまう。
掃除当番の数人は、教室の後ろに立つ古いロッカーまでダラダラと歩いていく。そこに掃除道具が収められているのだけど、誰一人先を急がない。
魚津さつきは、自席に座ったままだ。中央の列の前から三番目。教室のヘソのような位位置。そこで掃除当番の人たちを目で追っている。彼らが後ろの席に近づくと、窓際の最後尾の席の近くに同級生と目が合ってしまった。
さつきは「チッ」と舌打ちをする。
窓際の席にいる鏑木ヒロが、こちらを見ていた。
彼はもうマスクをつけていない。ヒロは肩にカバンを引っ掛けて立っている。
いや。立っていると言うよりも、机に腰を軽く乗せている。
彼はいつからこちらを見ていたのか?
さつきは目を下げる。
ああ、本当に面倒くさい。
そんな愚痴を飲み込みながら、彼女も自分のマスクを外す。こんなものをいつまでもつけていたら、唇の周りが痒くてたまらない。マスクはカバンの中に突っ込んでおく。
鏑木ヒロは、本当にヘンなヤツなのだ。気味が悪いと言っても良い。もう数ヶ月も彼と共に過ごしたこのクラスの連中なら、そんな彼の雰囲気を理解してくれるに違いない。ただし、さつきにしても、ここの同級生たちとは仲良くないのだけど。
ヒロの外見は、見るに堪えないくらい醜悪だ――と言う訳ではない。
無造作に伸びた髪で隠れたりもするが、彼の顔は少し童顔のきらいはあるものの、むしろ綺麗だと思っている。すらりとした細身の体。身長もクラスの男子の中では高い方。遠くで見る分には良い。少なくとも不快にはならない。
それでも鏑木ヒロは、どこか不気味な存在だった。彼の外見よりも、雰囲気が独特なのかもしれない。
ヒロを特別なものにしているもの。その一つに、クラスメイトたちが囁く陰口と言うのか――噂話のようなものがある。噂は彼の家族にまつわるものだった。友だちなどほとんどいないさつきですら、一度は耳にした事がある。
彼の実家はとても裕福らしい。実父は起業家であり、二十代の後半でIT企業を立ち上げた。主力商品は、顧客管理情報処理のためのビジネス向けクラウドコンピューティング・サービスであり、二十年ほどの間に国内でも多くの顧客――そのほとんどが、中小企業や個人事業主だった――を獲得していった。売上高で言えば、県内トップの上場企業まで成長している。地元テレビ局のニュース番組のニスポンサー企業でもあり、テレビCMも頻繁に流されているので、この地域で知らない人はほとんどいない。
この企業は、数年前から他の業種の投資も積極的に進めているらしい。
最近では富裕層向けのリゾート施設の開発や、郊外の温泉旅館のリニューアルを行う会社の筆頭株主になったとメディアに報じられていた。社長――つまりヒロの父親は、地元新聞社のインタビューで、「開発投資は地域経済を活性化するものであり、自分に取っては、育ててくれた郷土への恩返しの一つだ」と誇らしげに語っていた。
他方、一代で巨大な資産を築いた勝ち組には、他人からの妬みや嫉みが執拗にまとわりつく。嫉妬のような負の感情に取りつかれた人たちは、新興の資産家に対して批判めいた噂をいくつも作り出していた。
例えば、彼の会社は地方自治体へのクラウドサービスを一手に引き受けている。そのため、県知事や市長と鏑木社長との蜜月ぶりは、公然の秘密となっている――とか。
鏑木社長の総収賄や法人税の脱税の疑惑などは、ここ数年、何度も浮かんできては消えている――とか。
加えて、そんな無数の噂は、父親の人格まで攻撃している。パワハラやセクハラのエピソードは無数にある。だけどそれはまだ序の口であり、果てはロリコン、小児性愛者とまで疑われている。鏑木家の社長が、少女と手をつないでホテルに入っていった――などと言う目撃談まで流れ出す始末だった。
そんな悪名が祟ったのか。
さつきも詳しくは知らないのだけど、鏑木夫妻――ヒロの両親の関係は、もうずいぶん前から破綻していたらしい。
そして、今年の五月。
鏑木家は、実に呆気なく当主を失った。
それは家族旅行であったらしい。鏑木社長の会社が再開発した山間部の温泉旅館。五月の連休を利用して、鏑木社長は妻と一人息子を連れて、そこの最上級の部屋に滞在していた。彼らが滞在していたまさにその日の深夜に、温泉旅館は火災に見舞われた。焼け落ちる客室から不運にも逃げ遅れたのは、鏑木家の中では鏑木社長だけだった。
鏑木ヒロと母の里佳子は無事避難できたと言う。
ただし、母親の里佳子は、心に障害を負ったようだった。口さがのない人たちの間では、それは火事で夫を失ったトラウマなんかではなく、夫の死を知って、莫大な遺産を相続できると狂喜乱舞したせいだと言われている。
いずれにせよ、不幸だったのは鏑木ヒロだ。彼は父と共に、母までも失ってしまった。これだけでもヒロから漂う空気は不穏なものになるだろう。
ただし、彼が不穏であるのはそれだけではない。
この少年の近くにいると、奇妙な違和感を覚える事があるのだ。不安感と言っても良い。
今も教室の隅に佇むヒロの姿を見ると、なにやらこちらの心の中――もしくは心の声と言った方が良いのか――それを知られてしまった気分になってしまう。そして、訳もなく鳥肌が立つ。
さつきはスッと立ち上がる。
彼女はもうカバンに教材などを詰め込んでいる。もうさっさと帰ってしまいたくもなるだけど、今日に限っては特別な予定が入っている。
これは実に面倒くさい。しかし予定を入れたのは、当のさつき本人だ。それに今日済ませておかなければ、また初めから予定を入れ直さなければいけない。そちらの方がよほど手間だ。
こうなってはもう仕方ない。
声にならない声を飲み込んで、彼女はカバンを手にして歩いていく。目指すは、教室のドアとは反対の方向。鏑木ヒロの席まで近づいていく。
ヒロはなにも言わない。ずっとこちらを眺めているだけ。
さつきが声をかけるのを待っている。こちらを見透かしているようだ。こんなところが不気味であり、ともすれば背筋が凍るくらいの恐怖を感じる。
ヒロは机の上から離れる。このタイミングは絶妙だ。さつきが声をかける瞬間を完全に理解しているようにも思えてくる。
まるで、あらかじめその声を聴いていたかのように――。
「お待たせ、鏑木」

