*
「なんなんですか、本当に。意味がわかりません」
雪は箸を持つ手を止めてしまった。
十九時ちょうどの鏑木家のダイニング。テーブルの上には夕食が並んである。メニューは、鮭のホイル焼き。椎茸とエリンギのバターソテー。豚肉とナスの味噌汁。手元には、緑茶の入った湯呑みが湯気を立てている。
「だから、魚津はヘンなヤツなんだ。俺もなに考えてるのか全然理解できないよ」
ヒロも箸を止めて答える。
「確かにヘンな人です。ヒロに下着を見られて平気だなんて……」
「いや、そう言う問題じゃなくてさ」
「そう言う問題です」と雪は鮭の切り身に箸を入れながら言う。「だけど、どうしてさつきさんはそこで綺麗に跳ぶ事ができたのでしょうか?」
「ああ、それは彼女が小さい頃から本格的にバレエを習っていたから。今も市内のバレエ教室に通ってるらしいし」
ヒロは語尾を濁す。
つい余計な事まで言ってしまった――そんな文字が、彼の顔に書いてあるようだ。
「良く知ってますね。本当に仲が良いみたいですね」
「いや、それほど仲が良いって訳でも……。まあ、中等部とかでも同じクラスになった事があったし、全然知らない訳じゃないんだけどね」
「下着の色を確認できるくらいは、仲が良いと言う事ですか?」
「勘弁してよ、柳田」
ヒロの笑顔が引きつっている。彼にしては珍しい表情だ。
さて。これからどうやってヒロを困らせてやろうか。
そう思うとなんだか楽しくなってしまう。
雪がそんな事を考えていたところ――。
《ごめんなさい。鏑木さん。今日は、もうお暇しても良いですか?》
雪の頭の中に響く声。
これは、中年の女性のものだ。
ヒロも表情を変えている。彼の頭の中にもこの声は響いているのだろう。
十三秒先にこの家のダイニングで聴く女性の声だ。ならば、誰のものなのかなんて直ぐに分かる。
ヒロはスッと立ち上がる。
彼に合わせて、雪も箸を置いて椅子を引いて立ち上がった。
ヒロと視線を合わせる。彼は小さく頷いた。
頭の中で一、二、三とカウントを始める。十秒も立たない内に、ダイニングのドアが開かれた。
現れたのは、水色のエプロンをつけた四十代前半の少し太った女性だ。
彼女は鏑木家で数ヶ月前から働き始めた家政婦。家事代行サービスの会社から派遣されているスタッフの一人だった。
家政婦は、ダイニングテーブルの近くで立っているヒロと雪の二人を見て、「あら」と少し驚いたような表情を見せた。
彼女は数秒ほど躊躇った後で、口を動かした。
「ごめんなさい。鏑木さん。今日は、もうお暇しても良いですか?」
雪はヒロと顔を見合わせる。
十三秒先の声の確認――先ほど二人が聴いたのは、やはりこの声で間違いない。
家政婦は不思議そうにこちらの様子を伺っている。
「なにかあったんですか?」とヒロが慌てて問いかける。
「ええ、ちょっと子供が熱を出したみたいで……」
家政婦は目を下げる。少し恐縮しているようだ。
「大した事ないと思うんですけど、夫から電話が入っちゃって……。すみませんが、今日は三十分だけ早く上がっても良いですか?」
「ああ、別に構いませんよ」
ヒロはニコリと笑って言う。
「念のために、奥様にも申し上げたのですが……」
「あれ、あの人の部屋に入ったんですか?」
「いいえ、入れませんよ」
とんでもない、と家政婦は苦笑を浮かべる。
「今日も鍵がかかってました。だからドア越しに声をかけたくらいですよ」
「ですよね」ヒロは得心した顔で頷く。
「ごめんなさい。食事の後の食器を洗っておくのも、本来はわたしの仕事になってますよね」
「あたしがやっておきます」
雪が横から割って入る。
「そうですか……」家政婦がチラリとこちらに視線を向ける。「すみませんが、お願いできますか?」
彼女は鏑木家における雪の立場をまだ理解できていないようだった。
雪を依頼主の家族の一人と接するべきか。この家の客人の一人として扱うべきか。それとも――などと、雪にとっては、どうでも良いような思考を巡らせているのかもしれない。
「ぼくも食器くらい洗いますよ」
ヒロの声はとても穏やかだ。この家政婦に気を遣っての事だろう。
「それに、いつも食材の買い出しとか、おいしいご飯を作ってもらってますし、十分感謝しています」
「いえいえ、そんな」と彼女は謙遜する。「ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
家政婦は頭を下げて、「では、これで」と言って、軽やかにダイニングを出ていく。
小太りの体が、まるで風船のように跳ねているようだった。
彼女が出ていくと、ヒロはストンと椅子に腰を下ろした。
「食べようか。ちょっと冷めたかも」
「はい」
雪もそっと椅子に座る。
箸を取って鮭の切り身を口に運ぶ。やはり少し冷めている。だけど、あの家政婦の料理の腕は確かだ。バターの香りにレモンの果汁の酸味が程よく混じっている。塩加減や黒胡椒のアクセントも悪くない。
悪いのは、家政婦の目だ。こちらを見透かすような目。あの目でいつも雪に語りかけてくる――「あなたは、どうしてそこに座っているの?」と。
「柳田、どうかした?」
ヒロは味噌汁のお椀を手にしたまま、こちらを見ている。
「なんでも、ないです……」
ふうん、と言ってヒロがズズッと味噌汁を啜る。その音がダイニングに流れていく。
十三秒先の声はもう聴こえない。
雪も黙々と箸を動かす。
鮭の切り身やソテーは皿の上から消え、味噌汁の椀は空っぽになり、すっかり冷め切った緑茶を胃の中に流し込む。
そうして、淡々と食事を終えた時になって、カチャリと硬質の小さな音を立てて、ダイニングのドアが開いた。
「夕飯、もう柳田と一緒に食べちゃったよ」
目の前に座るヒロは、目を閉じたままそんな事を言う。
彼はドアを背にしている。
しかしヒロはそこに誰がいるのか知っている。
いや。ひょっとしたら、ヒロはダイニングのドアが開く前から、ここに彼女が入ってくるのを知っていたのかもしれない。
雪に聴こえない十三秒先の声。
果たしてヒロはそれを聴く事ができるのだろうか。そんな疑問が頭を過ぎる。
されどそれは不可能だ。
十三秒先の声が絶対に聴こえない人もいるのだから。
雪は、ドアから姿を見せた鏑木里佳子の顔をじっと見つめた。
「ご飯、おいしかった?」
里佳子は雪を見て、ニコリと笑う。
こちらに向かって訊いてきたのだから、答えなくてはならない。
「今日もおいしかったです」
「本当?」
「この鮭のホイル焼きは、どう考えても絶品だと思います」
ぱぁ、と里佳子は花が咲いたような笑顔になる。
「雪ちゃんにそう言ってもらえて良かったわ。それ、作るのちょっと大変だったのよ。バターとか、レモンの果汁とか分量が難しくてね。ちゃんとバランス取らないとその味は出せないから」
里佳子は口角を上げて、得意気に言う。
「そうですか」
雪はヒロの表情を伺う。
こんな時、彼は決まって感情を殺している。
「家政婦さん、今日は早めに帰ったけど、母さんは知ってた?」
ようやくヒロは体を後ろに向けた。
この母の顔を見てなにを思うのか。
「ああ、そうだったの……」里佳子の声に張りがなくなっていく。「やけに静かだと思ったわ。あの人がいたら、良く喋るから直ぐに分かるのよ。なんて言ったかしら……あの人の名前。確か、やなぎ――」
「あの人は、山田さんだよ」
「そうそう。山田さんだったわね」里佳子は苦笑を浮かべる。「本当、やだわ。新しい人になってもうずいぶん経つのに、まだ名前覚えてないなんてね。綺麗な方よね。ほっそりしてて……。けど、お子さんは、もう中学生くらいだったかしら……。旦那さんとは随分前に別れたって言ってたから、お一人で子育てなんて本当に大変そうだけど――」
「母さん」
ヒロは里佳子の言葉に被せて言う。
え? と彼女は戸惑う。
一人息子がとうとう反抗期に入ってしまったのか――そんな絶望が彼女の顔を覆っている。
「いや、そうじゃなくて……」
ヒロも里佳子の表情を見て、そんな風に感じたのかもしれない。
「母さんは夕飯、食べないの?」
「夕飯……?」
「ずっと部屋で仕事をしてたんだから、お腹空いたでしょ」
彼はスッと立ち上がる。
里佳子はホッとしたような顔になった。大切な息子が、自分を労ってくれる事が心底嬉しいのだろう。
「わたしはまだ良いわよ。お仕事の最中にお菓子食べてたから……まだ食べられそうにないわね」
彼女は自室でいったいなんの仕事をしているのか。
そもそも夕食を作っていたと言い張る彼女に、自分の仕事をする時間などどこにあったのだろうか。
里佳子の語る現実――紛れもなく、フィクションそのものなのだけど――その綻びが目立ち始めている。
もうこの茶番を打ち切った方が良い。
「じゃあ、母さん」ヒロは立ち上がりながら言う。「ご飯食べたくなったらいつでも言ってきてよ。温め直すから」
「あら、優しいのね」
里佳子は嬉しそうに笑う。
このやり取りだけを見ていると、文字通り微笑ましい親子の会話にしか見えない。
それでも。
この場で笑っていられるのは、当の里佳子だけ。
ヒロは表情にも、声にもなんの感情も乗せてない。
雪もそうだ。どんな顔をして、この女の前に立っていれば良いのか。それが分からない。
なぜなら、鏑木里佳子を壊したのは――他でもない柳田雪だから。
詰まるところ、この家族を壊してしまったのは、あたしなのだ――と自分の声が頭の中で響いている。これは十三秒先の声でもない。ただの贖罪を求める声なのだ。自分が壊してしまったものの価値。それが、とても償いきれないくらいに大きなものだった事を実感する。
「お母さん、部屋に戻るわね。残った仕事を片付けておかないと……」
里佳子の笑顔は、まるで焼いて固まってしまった陶磁器のようだった。その艶やかな表情を変えずに、彼女はダイニングのドアの向こうに消えていく。
カチャン、と。
ドアが静かに閉まる。
同時に、雪も立ち上がった。テーブルの上の空になった食器を重ねていく。
「ヒロ、あたしが食器を洗っておきます」
彼は母が閉ざしたドアをぼんやりと眺めている。
里佳子は、再び自分の部屋に引き篭もってしまった。
次に彼女が部屋を出てくるのはいつになるのか。
夢の中だけで生きている里佳子の行動は、雪にも、そしてヒロでさえも理解できない。
彼女は夢の中で喋っている。だから、その十三秒先の声は現実世界には届かない。
ヒロは「あぁ……」と掠れるような声を漏らしていた。
「なんなんですか、本当に。意味がわかりません」
雪は箸を持つ手を止めてしまった。
十九時ちょうどの鏑木家のダイニング。テーブルの上には夕食が並んである。メニューは、鮭のホイル焼き。椎茸とエリンギのバターソテー。豚肉とナスの味噌汁。手元には、緑茶の入った湯呑みが湯気を立てている。
「だから、魚津はヘンなヤツなんだ。俺もなに考えてるのか全然理解できないよ」
ヒロも箸を止めて答える。
「確かにヘンな人です。ヒロに下着を見られて平気だなんて……」
「いや、そう言う問題じゃなくてさ」
「そう言う問題です」と雪は鮭の切り身に箸を入れながら言う。「だけど、どうしてさつきさんはそこで綺麗に跳ぶ事ができたのでしょうか?」
「ああ、それは彼女が小さい頃から本格的にバレエを習っていたから。今も市内のバレエ教室に通ってるらしいし」
ヒロは語尾を濁す。
つい余計な事まで言ってしまった――そんな文字が、彼の顔に書いてあるようだ。
「良く知ってますね。本当に仲が良いみたいですね」
「いや、それほど仲が良いって訳でも……。まあ、中等部とかでも同じクラスになった事があったし、全然知らない訳じゃないんだけどね」
「下着の色を確認できるくらいは、仲が良いと言う事ですか?」
「勘弁してよ、柳田」
ヒロの笑顔が引きつっている。彼にしては珍しい表情だ。
さて。これからどうやってヒロを困らせてやろうか。
そう思うとなんだか楽しくなってしまう。
雪がそんな事を考えていたところ――。
《ごめんなさい。鏑木さん。今日は、もうお暇しても良いですか?》
雪の頭の中に響く声。
これは、中年の女性のものだ。
ヒロも表情を変えている。彼の頭の中にもこの声は響いているのだろう。
十三秒先にこの家のダイニングで聴く女性の声だ。ならば、誰のものなのかなんて直ぐに分かる。
ヒロはスッと立ち上がる。
彼に合わせて、雪も箸を置いて椅子を引いて立ち上がった。
ヒロと視線を合わせる。彼は小さく頷いた。
頭の中で一、二、三とカウントを始める。十秒も立たない内に、ダイニングのドアが開かれた。
現れたのは、水色のエプロンをつけた四十代前半の少し太った女性だ。
彼女は鏑木家で数ヶ月前から働き始めた家政婦。家事代行サービスの会社から派遣されているスタッフの一人だった。
家政婦は、ダイニングテーブルの近くで立っているヒロと雪の二人を見て、「あら」と少し驚いたような表情を見せた。
彼女は数秒ほど躊躇った後で、口を動かした。
「ごめんなさい。鏑木さん。今日は、もうお暇しても良いですか?」
雪はヒロと顔を見合わせる。
十三秒先の声の確認――先ほど二人が聴いたのは、やはりこの声で間違いない。
家政婦は不思議そうにこちらの様子を伺っている。
「なにかあったんですか?」とヒロが慌てて問いかける。
「ええ、ちょっと子供が熱を出したみたいで……」
家政婦は目を下げる。少し恐縮しているようだ。
「大した事ないと思うんですけど、夫から電話が入っちゃって……。すみませんが、今日は三十分だけ早く上がっても良いですか?」
「ああ、別に構いませんよ」
ヒロはニコリと笑って言う。
「念のために、奥様にも申し上げたのですが……」
「あれ、あの人の部屋に入ったんですか?」
「いいえ、入れませんよ」
とんでもない、と家政婦は苦笑を浮かべる。
「今日も鍵がかかってました。だからドア越しに声をかけたくらいですよ」
「ですよね」ヒロは得心した顔で頷く。
「ごめんなさい。食事の後の食器を洗っておくのも、本来はわたしの仕事になってますよね」
「あたしがやっておきます」
雪が横から割って入る。
「そうですか……」家政婦がチラリとこちらに視線を向ける。「すみませんが、お願いできますか?」
彼女は鏑木家における雪の立場をまだ理解できていないようだった。
雪を依頼主の家族の一人と接するべきか。この家の客人の一人として扱うべきか。それとも――などと、雪にとっては、どうでも良いような思考を巡らせているのかもしれない。
「ぼくも食器くらい洗いますよ」
ヒロの声はとても穏やかだ。この家政婦に気を遣っての事だろう。
「それに、いつも食材の買い出しとか、おいしいご飯を作ってもらってますし、十分感謝しています」
「いえいえ、そんな」と彼女は謙遜する。「ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
家政婦は頭を下げて、「では、これで」と言って、軽やかにダイニングを出ていく。
小太りの体が、まるで風船のように跳ねているようだった。
彼女が出ていくと、ヒロはストンと椅子に腰を下ろした。
「食べようか。ちょっと冷めたかも」
「はい」
雪もそっと椅子に座る。
箸を取って鮭の切り身を口に運ぶ。やはり少し冷めている。だけど、あの家政婦の料理の腕は確かだ。バターの香りにレモンの果汁の酸味が程よく混じっている。塩加減や黒胡椒のアクセントも悪くない。
悪いのは、家政婦の目だ。こちらを見透かすような目。あの目でいつも雪に語りかけてくる――「あなたは、どうしてそこに座っているの?」と。
「柳田、どうかした?」
ヒロは味噌汁のお椀を手にしたまま、こちらを見ている。
「なんでも、ないです……」
ふうん、と言ってヒロがズズッと味噌汁を啜る。その音がダイニングに流れていく。
十三秒先の声はもう聴こえない。
雪も黙々と箸を動かす。
鮭の切り身やソテーは皿の上から消え、味噌汁の椀は空っぽになり、すっかり冷め切った緑茶を胃の中に流し込む。
そうして、淡々と食事を終えた時になって、カチャリと硬質の小さな音を立てて、ダイニングのドアが開いた。
「夕飯、もう柳田と一緒に食べちゃったよ」
目の前に座るヒロは、目を閉じたままそんな事を言う。
彼はドアを背にしている。
しかしヒロはそこに誰がいるのか知っている。
いや。ひょっとしたら、ヒロはダイニングのドアが開く前から、ここに彼女が入ってくるのを知っていたのかもしれない。
雪に聴こえない十三秒先の声。
果たしてヒロはそれを聴く事ができるのだろうか。そんな疑問が頭を過ぎる。
されどそれは不可能だ。
十三秒先の声が絶対に聴こえない人もいるのだから。
雪は、ドアから姿を見せた鏑木里佳子の顔をじっと見つめた。
「ご飯、おいしかった?」
里佳子は雪を見て、ニコリと笑う。
こちらに向かって訊いてきたのだから、答えなくてはならない。
「今日もおいしかったです」
「本当?」
「この鮭のホイル焼きは、どう考えても絶品だと思います」
ぱぁ、と里佳子は花が咲いたような笑顔になる。
「雪ちゃんにそう言ってもらえて良かったわ。それ、作るのちょっと大変だったのよ。バターとか、レモンの果汁とか分量が難しくてね。ちゃんとバランス取らないとその味は出せないから」
里佳子は口角を上げて、得意気に言う。
「そうですか」
雪はヒロの表情を伺う。
こんな時、彼は決まって感情を殺している。
「家政婦さん、今日は早めに帰ったけど、母さんは知ってた?」
ようやくヒロは体を後ろに向けた。
この母の顔を見てなにを思うのか。
「ああ、そうだったの……」里佳子の声に張りがなくなっていく。「やけに静かだと思ったわ。あの人がいたら、良く喋るから直ぐに分かるのよ。なんて言ったかしら……あの人の名前。確か、やなぎ――」
「あの人は、山田さんだよ」
「そうそう。山田さんだったわね」里佳子は苦笑を浮かべる。「本当、やだわ。新しい人になってもうずいぶん経つのに、まだ名前覚えてないなんてね。綺麗な方よね。ほっそりしてて……。けど、お子さんは、もう中学生くらいだったかしら……。旦那さんとは随分前に別れたって言ってたから、お一人で子育てなんて本当に大変そうだけど――」
「母さん」
ヒロは里佳子の言葉に被せて言う。
え? と彼女は戸惑う。
一人息子がとうとう反抗期に入ってしまったのか――そんな絶望が彼女の顔を覆っている。
「いや、そうじゃなくて……」
ヒロも里佳子の表情を見て、そんな風に感じたのかもしれない。
「母さんは夕飯、食べないの?」
「夕飯……?」
「ずっと部屋で仕事をしてたんだから、お腹空いたでしょ」
彼はスッと立ち上がる。
里佳子はホッとしたような顔になった。大切な息子が、自分を労ってくれる事が心底嬉しいのだろう。
「わたしはまだ良いわよ。お仕事の最中にお菓子食べてたから……まだ食べられそうにないわね」
彼女は自室でいったいなんの仕事をしているのか。
そもそも夕食を作っていたと言い張る彼女に、自分の仕事をする時間などどこにあったのだろうか。
里佳子の語る現実――紛れもなく、フィクションそのものなのだけど――その綻びが目立ち始めている。
もうこの茶番を打ち切った方が良い。
「じゃあ、母さん」ヒロは立ち上がりながら言う。「ご飯食べたくなったらいつでも言ってきてよ。温め直すから」
「あら、優しいのね」
里佳子は嬉しそうに笑う。
このやり取りだけを見ていると、文字通り微笑ましい親子の会話にしか見えない。
それでも。
この場で笑っていられるのは、当の里佳子だけ。
ヒロは表情にも、声にもなんの感情も乗せてない。
雪もそうだ。どんな顔をして、この女の前に立っていれば良いのか。それが分からない。
なぜなら、鏑木里佳子を壊したのは――他でもない柳田雪だから。
詰まるところ、この家族を壊してしまったのは、あたしなのだ――と自分の声が頭の中で響いている。これは十三秒先の声でもない。ただの贖罪を求める声なのだ。自分が壊してしまったものの価値。それが、とても償いきれないくらいに大きなものだった事を実感する。
「お母さん、部屋に戻るわね。残った仕事を片付けておかないと……」
里佳子の笑顔は、まるで焼いて固まってしまった陶磁器のようだった。その艶やかな表情を変えずに、彼女はダイニングのドアの向こうに消えていく。
カチャン、と。
ドアが静かに閉まる。
同時に、雪も立ち上がった。テーブルの上の空になった食器を重ねていく。
「ヒロ、あたしが食器を洗っておきます」
彼は母が閉ざしたドアをぼんやりと眺めている。
里佳子は、再び自分の部屋に引き篭もってしまった。
次に彼女が部屋を出てくるのはいつになるのか。
夢の中だけで生きている里佳子の行動は、雪にも、そしてヒロでさえも理解できない。
彼女は夢の中で喋っている。だから、その十三秒先の声は現実世界には届かない。
ヒロは「あぁ……」と掠れるような声を漏らしていた。

