豹紋もどき

       *

 高等部二年生の一学期。
 その時までは、さつきは「魚津さつき」ではなかったのだ。
 夏休みが明けて、最初の登校日。二年四組の朝のホームルームが始まると、担任はマスクを顎に引っ掛けた生徒たちを注意した。彼らがしぶしぶ不織布のマスクを口元に当てた頃を見計らって、担任は声を出して生徒の出欠を確認し始めた。
 大半のクラスメイトたちは、そこで彼女の苗字が変わった事に気がついた。
「魚津さつき」がこの狭い世界の中で認知された瞬間だった。
 ホームルームの後には、通常なら終業式が執り行われる筈だった。ただし、この年は感染症の予防措置として、大人数を体育館のような閉鎖された空間に集めるような行事は中止となっていた。代わりに、各教室のテレビを使って、校内放送で校長の話が中継された。その後に、生活指導の教員から新学期での注意事項の話が続いた。
 ヒロは淡々とそんな説明をする。
 彼の話を聞きながら、雪も中等部の試乗式の事を思い出していた。
 中等部も高等部と同じだった。ホームルームの終了から、校内放送の開始まで、十五分ほどの小休憩が入っていた。
 雪の教室――中等部三年一組では、担任が席を外すと同級生たちは直ぐにマスクを顎に引っ掛けて、仲の良いグループで集まって雑談を始めていた。
 これでは感染症対策もあったものではない。ただし、雪に話しかけてくるクラスメイトなど、一人もいなかったのだけど。
 魚津さつきの場合は、そうではなかったらしい。
 少なくとも一学期の間は、さつきはクラスでは目立った存在だったようだ。愛想が悪いながらも、顔立ちが整っているせいか、特に男子に注目されていた。
 だけど、その代償と言うのか。
 クラスの女子たちにはあまり人気がなかったのかもしれない。
 それでも校内放送の中継が始まるまでの短い休み時間に、さつきの席の周りに数人の女子たちがいた。彼女たちの顔の半分は、マスクで覆われていた。
 しかし、その時の女子たちは、皆一様に両目が三日月の形になっていたらしい。ひょっとしたら口の形も同じで、下卑た笑みが隠されていたのだろう。

 ――魚津ってさ、いつ名前変えたの?

 リーダー格の女子が無遠慮に訊く。
 さつきは無言でやり過ごしている。
 無視も想定内。
 女子グループでは、クスクスと忍び笑いが広がってく。

 ――前の名前ってなんだっけ? あたし思い出せないんだけど。
 ――「魚津さつき」ってリズム悪くない? 
 ――てか、名前のリズムを気にして、親を変えようと思わないよね。
 ――父親が家族を捨てたって聞いたんだけど。娘のバレエ教室で見つけた若い子食べちゃったらしいし……。
 ――父親が食べるって、それリアルに犯罪じゃない?

 リーダーが先陣を切ってしまったせいか、取り巻きたちも遠慮もなければ、口さがない。
 ダンッと、机に平手打ちをしたような乾いた音が室内に響いた。
 さつきが机を叩いて、立ち上がったのだ。
 クラス中の視線が彼女に集まる。
「どいて」
 さつきがそう言った瞬間だった。
 突然、ふわりと人間が机の上まで浮き上がった――その現場を目にしたヒロは、後にそんな事を言っていた。
 いったいどんな景色だったのか。
 雪は想像するのだけど、恐らく、うまく映像に結びつかない。
 当たり前だ。教室の中で、突然、夏服――白い半袖シャツにスカートを身につけた小柄な女の子が、ふわりと宙に舞い上がったのだ。それも、両足が水平になるくらいに大きく開かれたジャンプだったと雪は聞いている。
 実際には、さつきは飛び上がる前に、二、三歩ほど小さくステップを踏んだらしい。その後で、勢い良く踏み切り、空中で膝を伸ばして、両脚を百八十度以上の角度で開いた。
 グラン・パ・ドゥ・シャ。
 彼女がそこで見せたのは、そんな名前のバレエの跳躍だった。
 フランス語のその言葉には「猫の特大のステップ」と言う意味が込められているようだが、ヒロの目にはまるで蝶が羽を広げて空を舞うように見えたらしい。
 そんな大ジャンプをすれば、彼女のスカートも傘のように広がってしまう。
 女子たちは一斉に「きゃあ!」と悲鳴を上げて後退った。

 ――やだ! 
 ――まじでキモい!
 ――白の下着が見えてんじゃん!
 ――白じゃねーよ。ヤバいくらい黒いし!
 ――みんなにパンツ見せるって、ホントなんなの!

 女子たちに混じって、男子まで騒いでいる。
 さつきは音もなく着地すると、スッと背筋を伸ばした。少しだけ乱れたダークブラウンのショートボブの頭を手で軽く押さえつける。
 彼女は周囲の雑音などなにも気にしていないのだ。むしろ、この大ジャンプで目障りな野次馬たちを自分の周りから追い払った事で満足したのかもしれない。
 さつきは周囲に一瞥もせず、足早に廊下に出ていった。
 彼女は校内放送の時間になっても、教室に戻ってくる事はなかった。