「柳田、落ち着いて……」
ヒロが苺ミルクの紙パックを差し出してくる。
彼は自分の席に座ったままだ。室内にいるのに、マスクをつけていない。明らかな規則違反だろうが、良く見るとこのクラスのほとんどの生徒はマスクをつけていない。
高等部の生徒たちは順法意識が低いのか。
あるいは大人びた彼らは権力――つまり教員に対する反抗意識が強いのか。
そんなどうでも良い事を考えながら、雪は手を伸ばして紙パックを受け取った。
紙パックはまだ冷たい。封も開けていない。ストローをプスリと刺して、直ぐに口をつける。一気に吸い上げると、甘いミルクが舌の上を流れて胃の腑まで落ちていった。
「なんで走ってきたの。運動は得意じゃないくせに」
ヒロは呆れたような顔になっている。
ぷはっ、と雪は勢い良くストローを口から離した。
「いなくなって、しまうと……思ったから、です……」
まだ少し息が切れる。
「誰が?」
「声の人です。聴こえました、十三秒先の……」
見知らぬ上級生が、じっとこちらを見ている。この女子高生も当たり前のようにマスクをつけていない。焦茶色のショートボブの頭。端正な顔立ち。美人とも言えるのだけど、十代にしては些か大人びているのかもしれない。
「ねぇ、鏑木、この子が『雪さん』なの?」
瀬踏みするような目を向けて、この上級生は言う。
「ああ、そう……」
ふうん、と彼女は声を漏らす。細めた目はまるで猫のようだ。思ったよりも身長は高くない。雪とほとんど同じくらいだろうか。
「驚いた。こっちから呼んでもないのに本当に来たのね」少女は雪とヒロの顔を交互に眺めて言う。「本当にあんたの言う通りだったわ」
ヒロは肩を竦める。
どうやらヒロは雪がここに来ることを予言していたようだ。雪が十三秒先の声を聴いていることを分かっていたのだろうか。
「柳田雪です」
うん、と少女は頷く。
なにを当たり前の事を――とでも言わんばかりの顔だが、雪が彼女に名乗ったのはこれが初めての筈だ。
「あなたは?」
「はぁ?」
「あなたの名前です」
ああ、と少女は興味がなさそうに呟く。
「魚津さつき」
「先輩ですか?」
「あ?」さつきはドスの効いた声で応じる。
女子高生にしては、目つきが悪い。これはもう猫の目と言うよりも、ネコ科の大型獣のそれだ。
「見れば分かるでしょ」
どうやら愛想も悪いようだ。
「柳田、この魚津は、ぼくの同級生だよ」
「鏑木さぁ、『この魚津』って……他にどの魚津がいるの?」
さつきはヒロにも遠慮がない。
ヒロは苦笑を浮かべている。
「いるでしょ、クミちゃんが……」
「あたしをあんなチビと一緒にすんな」
さつきも高校生にしては、小柄な方だ。自分の事を棚に上げて、どの口がそんな事を言うのか。
「クミちゃんって、魚津クミですか? 総合病院に入院していた……」
「だから他にどの魚津クミがいんのよ!」
さつきはあからさまな嫌悪感をこちらに向けてくる。
初対面の高等部の先輩にこんなにも邪険に扱われなくてはならないのか。
「気にしなくても良いよ、柳田」ヒロは、そんな気分を敏感に察したようだ。「魚津はいつもこんな感じだし。ちょっと変わってるから」
「適当な事言うんじゃないわよ!」
さつきがヒロを睨みつける。
「てか、魚津さ、柳田に言いたい事があったんじゃないの? そっちが柳田をここに呼んでほしいって言ってきたんだろ」
「まあ、そうだけど……」さつきは気の抜けたような声を出して答える。「あたしじゃなくて、クミがね」
「魚津クミ……」
「あんたと鏑木にもう一度会いたいから、家に連れてきてほしいって、あの子が言うのよ」
「家に……」
「そう。あの子の家。あたしはもう住んでないけど」
どうも雪には彼女が言っている事が理解できない。
そもそも分からないと言えば――。
「そう言えば、あなたとクミちゃんはどう言う関係なのですか?」
へ? とさつきは目を丸くした。
「あんたバカなの?」
「あなたとは違います」
ふん、とさつきは鼻で笑う。
売り言葉に買い言葉だった筈なのだけど、彼女に嫌味が通じた気がしない。
「柳田……」
ヒロがスッと立ち上がる。喧嘩でも仲裁しようとしたのか。ひょっとしたら、彼の頭には、かつて中等部の職員室で暴れた早川恵の姿でも過ぎったのかもしれない。
「まあ、良いけどね」さつきは小馬鹿にしたように言う。「あたしは、クミの姉。同じ『魚津』の苗字なんだから、それくらい分かるでしょ」
なるほど――と、そこで素直に頷くほど雪は単純ではない。
ヒロをチラと見る。
すると彼は明後日の方向に目を向けた。「自分には訊いてくれるな」とでも言いたいようだ。
「魚津クミは一人っ子です。あの時、病室にお見舞いに来たのは優しそうなパパとママだけでした」
「そんなの当たり前じゃない」
さつきは眉根を寄せる。
やっぱりあんたバカでしょ、と彼女は言いたいようだ。
「その時はまだ家族じゃなかったんだから」
「どう言う意味ですか?」
だぁーかぁーらぁ、と彼女は声を張り上げる。
「あたしはクミの義理の姉って言ってんでしょうが!」
雪は体の中からスッと力が抜けていくような感覚を味わった。
「どうして……」
「親どうしが再婚した理由なんてあたしが知る訳ないし。こっちも知りたくもないし、知ったところで気持ち悪いだけじゃない」
雪の心臓がドクンと跳ねた。
さつきが吐き捨てた言葉――「再婚」の二文字が、雪の胸にグサリと突き刺さった。
その言葉が意味する事実。それはつまり、娘の病室まで交互に足を運んでいたあの夫婦は、離婚していたと言う事か。
雪はヒロに顔を向ける。「知っていたんですか?」と視線で問いかける。
ヒロは目を下げる。なにも答えない。答えられないのかもしれない。
それが彼の答えだった。
「あたしはクミちゃんの未来が変わったと思ってました」
あの時、十三秒先の声を聴いて少しだけ余計な事をした。そうする事で、クミの両親が別れる未来が消えた――などと勝手に思い込んでいた。
「ちゃんと声は聴いていたのに……」
ヒロは自分の頭をまだ引っ掻いている。
「まあ、前にも言ったけど、未来の声なんて、結局なんの役にも立たないのかもしれない」
まして人の未来や運命を変える事なんてできる筈もない。
「だったら、どうしてあの声が――」
雪はそこで言葉に詰まった。
ヒロは苦笑を浮かべている。
そう。彼も雪と同じだ。
なにも分からない。なにも知らない。
だから、怖い。
どうして十三秒先の声が聴こえてしまうのか。どう言う仕組みで聴こえるのか。
これは果たして空耳なのか。
それとも鏑木里佳子のように、やがて雪たちも心を冒され、幻聴に悩まされるようになったのか。あるいは全ては夢や空想の類なのか。
その全ての疑問について、雪は総合病院の医師には相談もしなかった。相談したところで、まともに取りあってくれるとは思えなかった。むしろそう思えるのだから、まだ自分に正常な判断力が残されているのかもしれない。
それに全ての人の十三秒先の声が聴こえる訳でもない。他人の声など無視をしていればそのうち気にならなくなって、聴こえなくなってくる。
本当に困った事は、まだなにも起こっていない。
だから、大丈夫――なのか?
本当に、そうか?
「あんたら、どうでも良いけどさ……」
さつきの声を耳にして、雪は思考を止めた。
彼女はこちらを睥睨した後で、「はぁ」と深いため息を吐いた。
「結局、家に来るの? 来ないの?」
雪はヒロと顔を見合わせる。
「行きます」
少なくとも、魚津クミの新しい未来を見ておく義務はある。
雪はそう思っていた。
ヒロが苺ミルクの紙パックを差し出してくる。
彼は自分の席に座ったままだ。室内にいるのに、マスクをつけていない。明らかな規則違反だろうが、良く見るとこのクラスのほとんどの生徒はマスクをつけていない。
高等部の生徒たちは順法意識が低いのか。
あるいは大人びた彼らは権力――つまり教員に対する反抗意識が強いのか。
そんなどうでも良い事を考えながら、雪は手を伸ばして紙パックを受け取った。
紙パックはまだ冷たい。封も開けていない。ストローをプスリと刺して、直ぐに口をつける。一気に吸い上げると、甘いミルクが舌の上を流れて胃の腑まで落ちていった。
「なんで走ってきたの。運動は得意じゃないくせに」
ヒロは呆れたような顔になっている。
ぷはっ、と雪は勢い良くストローを口から離した。
「いなくなって、しまうと……思ったから、です……」
まだ少し息が切れる。
「誰が?」
「声の人です。聴こえました、十三秒先の……」
見知らぬ上級生が、じっとこちらを見ている。この女子高生も当たり前のようにマスクをつけていない。焦茶色のショートボブの頭。端正な顔立ち。美人とも言えるのだけど、十代にしては些か大人びているのかもしれない。
「ねぇ、鏑木、この子が『雪さん』なの?」
瀬踏みするような目を向けて、この上級生は言う。
「ああ、そう……」
ふうん、と彼女は声を漏らす。細めた目はまるで猫のようだ。思ったよりも身長は高くない。雪とほとんど同じくらいだろうか。
「驚いた。こっちから呼んでもないのに本当に来たのね」少女は雪とヒロの顔を交互に眺めて言う。「本当にあんたの言う通りだったわ」
ヒロは肩を竦める。
どうやらヒロは雪がここに来ることを予言していたようだ。雪が十三秒先の声を聴いていることを分かっていたのだろうか。
「柳田雪です」
うん、と少女は頷く。
なにを当たり前の事を――とでも言わんばかりの顔だが、雪が彼女に名乗ったのはこれが初めての筈だ。
「あなたは?」
「はぁ?」
「あなたの名前です」
ああ、と少女は興味がなさそうに呟く。
「魚津さつき」
「先輩ですか?」
「あ?」さつきはドスの効いた声で応じる。
女子高生にしては、目つきが悪い。これはもう猫の目と言うよりも、ネコ科の大型獣のそれだ。
「見れば分かるでしょ」
どうやら愛想も悪いようだ。
「柳田、この魚津は、ぼくの同級生だよ」
「鏑木さぁ、『この魚津』って……他にどの魚津がいるの?」
さつきはヒロにも遠慮がない。
ヒロは苦笑を浮かべている。
「いるでしょ、クミちゃんが……」
「あたしをあんなチビと一緒にすんな」
さつきも高校生にしては、小柄な方だ。自分の事を棚に上げて、どの口がそんな事を言うのか。
「クミちゃんって、魚津クミですか? 総合病院に入院していた……」
「だから他にどの魚津クミがいんのよ!」
さつきはあからさまな嫌悪感をこちらに向けてくる。
初対面の高等部の先輩にこんなにも邪険に扱われなくてはならないのか。
「気にしなくても良いよ、柳田」ヒロは、そんな気分を敏感に察したようだ。「魚津はいつもこんな感じだし。ちょっと変わってるから」
「適当な事言うんじゃないわよ!」
さつきがヒロを睨みつける。
「てか、魚津さ、柳田に言いたい事があったんじゃないの? そっちが柳田をここに呼んでほしいって言ってきたんだろ」
「まあ、そうだけど……」さつきは気の抜けたような声を出して答える。「あたしじゃなくて、クミがね」
「魚津クミ……」
「あんたと鏑木にもう一度会いたいから、家に連れてきてほしいって、あの子が言うのよ」
「家に……」
「そう。あの子の家。あたしはもう住んでないけど」
どうも雪には彼女が言っている事が理解できない。
そもそも分からないと言えば――。
「そう言えば、あなたとクミちゃんはどう言う関係なのですか?」
へ? とさつきは目を丸くした。
「あんたバカなの?」
「あなたとは違います」
ふん、とさつきは鼻で笑う。
売り言葉に買い言葉だった筈なのだけど、彼女に嫌味が通じた気がしない。
「柳田……」
ヒロがスッと立ち上がる。喧嘩でも仲裁しようとしたのか。ひょっとしたら、彼の頭には、かつて中等部の職員室で暴れた早川恵の姿でも過ぎったのかもしれない。
「まあ、良いけどね」さつきは小馬鹿にしたように言う。「あたしは、クミの姉。同じ『魚津』の苗字なんだから、それくらい分かるでしょ」
なるほど――と、そこで素直に頷くほど雪は単純ではない。
ヒロをチラと見る。
すると彼は明後日の方向に目を向けた。「自分には訊いてくれるな」とでも言いたいようだ。
「魚津クミは一人っ子です。あの時、病室にお見舞いに来たのは優しそうなパパとママだけでした」
「そんなの当たり前じゃない」
さつきは眉根を寄せる。
やっぱりあんたバカでしょ、と彼女は言いたいようだ。
「その時はまだ家族じゃなかったんだから」
「どう言う意味ですか?」
だぁーかぁーらぁ、と彼女は声を張り上げる。
「あたしはクミの義理の姉って言ってんでしょうが!」
雪は体の中からスッと力が抜けていくような感覚を味わった。
「どうして……」
「親どうしが再婚した理由なんてあたしが知る訳ないし。こっちも知りたくもないし、知ったところで気持ち悪いだけじゃない」
雪の心臓がドクンと跳ねた。
さつきが吐き捨てた言葉――「再婚」の二文字が、雪の胸にグサリと突き刺さった。
その言葉が意味する事実。それはつまり、娘の病室まで交互に足を運んでいたあの夫婦は、離婚していたと言う事か。
雪はヒロに顔を向ける。「知っていたんですか?」と視線で問いかける。
ヒロは目を下げる。なにも答えない。答えられないのかもしれない。
それが彼の答えだった。
「あたしはクミちゃんの未来が変わったと思ってました」
あの時、十三秒先の声を聴いて少しだけ余計な事をした。そうする事で、クミの両親が別れる未来が消えた――などと勝手に思い込んでいた。
「ちゃんと声は聴いていたのに……」
ヒロは自分の頭をまだ引っ掻いている。
「まあ、前にも言ったけど、未来の声なんて、結局なんの役にも立たないのかもしれない」
まして人の未来や運命を変える事なんてできる筈もない。
「だったら、どうしてあの声が――」
雪はそこで言葉に詰まった。
ヒロは苦笑を浮かべている。
そう。彼も雪と同じだ。
なにも分からない。なにも知らない。
だから、怖い。
どうして十三秒先の声が聴こえてしまうのか。どう言う仕組みで聴こえるのか。
これは果たして空耳なのか。
それとも鏑木里佳子のように、やがて雪たちも心を冒され、幻聴に悩まされるようになったのか。あるいは全ては夢や空想の類なのか。
その全ての疑問について、雪は総合病院の医師には相談もしなかった。相談したところで、まともに取りあってくれるとは思えなかった。むしろそう思えるのだから、まだ自分に正常な判断力が残されているのかもしれない。
それに全ての人の十三秒先の声が聴こえる訳でもない。他人の声など無視をしていればそのうち気にならなくなって、聴こえなくなってくる。
本当に困った事は、まだなにも起こっていない。
だから、大丈夫――なのか?
本当に、そうか?
「あんたら、どうでも良いけどさ……」
さつきの声を耳にして、雪は思考を止めた。
彼女はこちらを睥睨した後で、「はぁ」と深いため息を吐いた。
「結局、家に来るの? 来ないの?」
雪はヒロと顔を見合わせる。
「行きます」
少なくとも、魚津クミの新しい未来を見ておく義務はある。
雪はそう思っていた。

