*
午前中の最後の授業が終わり、昼休みの時間が始まる。
雪は早川恵の背中をチラリと見やる。
恵は友人が多い。授業が終わったばかりなのに、彼女は既に数人の女子に囲まれている。
加えて、恵の学力は学年でもトップクラスらしい。基本的に派手で明るく、運動神経も人並み以上であるのなら、教室内でこうも目立つ存在にもなる。
恵はこちらに見向きもしない。
数日前に廊下ですれ違って以来、彼女とは一言も口をきいていない。
それに、もう彼女の十三秒先の声は聴こえてこない。あれほど「好きだ」とか「愛してる」などと喚いていた彼女の声が、今は全く聴こえてこない。
雪は目を下げる。白いマスクに手をかける。息苦しくなってきたのだから、もう外しても良い。そう思ったものの、手を引っ込めた。
カバンに手を伸ばして、鏑木里佳子から渡された弁当箱の包みを取り出す。ベージュの小布を解くと、細長い弁当箱が出てくる。二段重ねのステンレス製のもの。まだ真新しい。このまま小布を包み直せば、弁当箱を開いた証拠にはなる。だからここまでで、この作業は十分だった。
それでも、雪は弁当箱の蓋をそっと外す。
普通なら、上の段には惣菜が入っている――筈なのだけど、そこにはなにも入っていない。
銀色に輝く小さな空間があるだけ。油汚れ一つついていない。
当たり前だ。これは洗ったままの状態なのだから。
弁当箱が空っぽである事は、今朝、里佳子から受け取った瞬間に分かっていた。なにも重みがないのだから。
こうして空の弁当箱を受け取る事は、鏑木家で暮らすようになってからの毎朝の日課の一つになっている。そして、それを里佳子に返す時に、「おいしかったです」と言う事は二つ目のルーティンでもある。
弁当箱の蓋を閉め直して、小布で包む。
「ぐう」と自分のお腹が小言を言うように鳴った。
仕方がない。今日も購買部で菓子パンを買うとしよう。僅かばかりの生活費を削る事に抵抗はあるのだけど、背に腹は変えられない。
そう思った瞬間――。
《――だからさ、鏑木……》
ここで頭の中に十三秒先の声が響くのは、ずいぶん久しぶりだった。
だけど、これは。
――誰の声?
知らない女子の声だ。
雪は思わず顔を上げる。室内を見回す。
こちらを見ている同級生は誰もいない。
そもそも雪がまともに喋った事があるクラスメイトは早川恵だけ。その恵にも毛嫌いされているのだから、声をかけてくる同級生などいる筈もない。
ならば、この声はどこから聴こえてくるのか?
どうして自分に聴こえてしまうのか?
《そう、あの子。ここに連れてきてよ。クミが『雪さん』って言ってたけど、鏑木の彼女じゃないの?》
その声が聴こえた時、雪は立ち上がった。
声の主は分からなくても、どこから聴こえてきたのか分かった気がした。体が無意識に動く。その勢いが余って、席を離れた瞬間に机に腰をぶつけてしまった。
ガタン、と机が跳ねる音が室内に響く。
――なに、あいつ。
――呪いで狂ったんじゃない?
――やめてよー、マジで怖いんだけど。あれってなんの呪いだっけ?
――お墓の近くの温泉旅館でしょ。
――あの子の母が呪いで狂って、ガソリン被って火をつけて燃やしたって……。
クラスメイトたちが囁く。そのざわめきが重しとなって、雪の背中に乗ってくる。それがまるで本当の呪いのように思えてきた。
その呪いを背中からなんとか振り下ろして、雪は教室のドアから廊下に走り出た。
先ほどまで頭の中に響いた声を思い出す。
あれは確かに十三秒先の声。ならば、もう少しで、声の主はその言葉を現実の世界に向けtれ吐き出すのだ。全速力で走っていけば、その声の主に会えるだろうか。
目指す場所は一つ――高等部の二年四組の教室。
そこには、鏑木ヒロがいる。
午前中の最後の授業が終わり、昼休みの時間が始まる。
雪は早川恵の背中をチラリと見やる。
恵は友人が多い。授業が終わったばかりなのに、彼女は既に数人の女子に囲まれている。
加えて、恵の学力は学年でもトップクラスらしい。基本的に派手で明るく、運動神経も人並み以上であるのなら、教室内でこうも目立つ存在にもなる。
恵はこちらに見向きもしない。
数日前に廊下ですれ違って以来、彼女とは一言も口をきいていない。
それに、もう彼女の十三秒先の声は聴こえてこない。あれほど「好きだ」とか「愛してる」などと喚いていた彼女の声が、今は全く聴こえてこない。
雪は目を下げる。白いマスクに手をかける。息苦しくなってきたのだから、もう外しても良い。そう思ったものの、手を引っ込めた。
カバンに手を伸ばして、鏑木里佳子から渡された弁当箱の包みを取り出す。ベージュの小布を解くと、細長い弁当箱が出てくる。二段重ねのステンレス製のもの。まだ真新しい。このまま小布を包み直せば、弁当箱を開いた証拠にはなる。だからここまでで、この作業は十分だった。
それでも、雪は弁当箱の蓋をそっと外す。
普通なら、上の段には惣菜が入っている――筈なのだけど、そこにはなにも入っていない。
銀色に輝く小さな空間があるだけ。油汚れ一つついていない。
当たり前だ。これは洗ったままの状態なのだから。
弁当箱が空っぽである事は、今朝、里佳子から受け取った瞬間に分かっていた。なにも重みがないのだから。
こうして空の弁当箱を受け取る事は、鏑木家で暮らすようになってからの毎朝の日課の一つになっている。そして、それを里佳子に返す時に、「おいしかったです」と言う事は二つ目のルーティンでもある。
弁当箱の蓋を閉め直して、小布で包む。
「ぐう」と自分のお腹が小言を言うように鳴った。
仕方がない。今日も購買部で菓子パンを買うとしよう。僅かばかりの生活費を削る事に抵抗はあるのだけど、背に腹は変えられない。
そう思った瞬間――。
《――だからさ、鏑木……》
ここで頭の中に十三秒先の声が響くのは、ずいぶん久しぶりだった。
だけど、これは。
――誰の声?
知らない女子の声だ。
雪は思わず顔を上げる。室内を見回す。
こちらを見ている同級生は誰もいない。
そもそも雪がまともに喋った事があるクラスメイトは早川恵だけ。その恵にも毛嫌いされているのだから、声をかけてくる同級生などいる筈もない。
ならば、この声はどこから聴こえてくるのか?
どうして自分に聴こえてしまうのか?
《そう、あの子。ここに連れてきてよ。クミが『雪さん』って言ってたけど、鏑木の彼女じゃないの?》
その声が聴こえた時、雪は立ち上がった。
声の主は分からなくても、どこから聴こえてきたのか分かった気がした。体が無意識に動く。その勢いが余って、席を離れた瞬間に机に腰をぶつけてしまった。
ガタン、と机が跳ねる音が室内に響く。
――なに、あいつ。
――呪いで狂ったんじゃない?
――やめてよー、マジで怖いんだけど。あれってなんの呪いだっけ?
――お墓の近くの温泉旅館でしょ。
――あの子の母が呪いで狂って、ガソリン被って火をつけて燃やしたって……。
クラスメイトたちが囁く。そのざわめきが重しとなって、雪の背中に乗ってくる。それがまるで本当の呪いのように思えてきた。
その呪いを背中からなんとか振り下ろして、雪は教室のドアから廊下に走り出た。
先ほどまで頭の中に響いた声を思い出す。
あれは確かに十三秒先の声。ならば、もう少しで、声の主はその言葉を現実の世界に向けtれ吐き出すのだ。全速力で走っていけば、その声の主に会えるだろうか。
目指す場所は一つ――高等部の二年四組の教室。
そこには、鏑木ヒロがいる。

