豹紋もどき

 中等部三年年一組の教室は、柳田雪にとって冷蔵(・)庫の中のようだった。決して、冷凍(・)庫ではない。そんなところでは凍てつくような殺意が肌にまとわりついてしまって、とても生きた心地がしない。
 だから、ここはまだ冷蔵庫の中だ。教室の中は、夏の間も、衣替えの季節になっても、ただ寒いだけ。クラスメイトの大半から、用事がなければほとんど声をかけられる事もない。ここでの人間関係はそれくらい冷え切っている。
 だけど、ただ、それだけ。
 自分がこの環境に身を置くようになったのは、いつからなのか。
 あまり考えた事もなかったのだけど、今になって思えば、最近になってからのような気もする。
 いや。ひょっとしたら、と雪は思う。
 この学校の中等部に入学してから、つまり一年生の時から、自分がいる教室の中はずっとこんな感じだったのかもしれない。
 なにせここは県内でもトップクラスの進学校。雪にとっては、場違いの世界だ。クラスメイトのほとんどは、雪と住んでいる世界が違う人たちでもある。
 もちろん高等部にいる鏑木ヒロもそうだ。彼はあんなにも大きな家に住んで、家政婦まで雇っているのだから。
 翻って、雪はそうではない。彼女がこの学校に入学できたのは、傍目から見れば奇跡と思われても仕方がない。ただし、奇跡であるのは、難関の受験を突破するために相当の学力が必要だからではない。雪は小学生の頃から、記憶力だけは良い方だった。受験勉強もそれほど苦ではなかった。
 問題は雪の学力ではなく、資力の方だった。柳田家は中学入試の受験料にも事欠くような母子家庭だった。雪の母は娘を産んで直ぐ父と離婚したらしい。「離婚した」と母は確かに言っていた。だけど、本当に結婚していたのかも怪しいと雪は感じている。
 どうして母は父――あるいは自分の男と別れたのか。
 彼女は自分の過去をあまり娘に話さなかった。
 それでも母が口にした昔話――もしくはフィクションの断片をつなぎ合わせると、彼女は駆け落ちのような形で男と一緒になったらしい。ただ、しばらくして自分の男の本性――連日のように、男から激しいDVを受けていた――それが明らかになってくると、丸めたティッシュのようにポイと男を捨ててしまったと彼女は言っていた。
 もちろんそれが嘘か真実かは分からない。いずれにせよ幼い頃から雪には、父もいなければ、親戚と呼べる人さえもいなかったのだ。
 母は家事代行サービスを手がける大手の派遣会社に登録して、家政婦として生計を立てていた。
 中高一貫の私立学校の入学金。授業料。それに大手の百貨店に発注するような制服の代金。私立の中学校に通うには、相応の負担が必要になってくる。それを家政婦の収入だけで支えるのは、小学六年生の雪でさえとても無理だと思っていた。
 それでも母は雪に受験を強く勧めてきた。彼女はいつの間にか中学受験のための大手学習塾の教材さえ手に入れていた。もちろん教材は新品ではない。所々に誰かが使い込んだ跡がある中古のものだ。母は派遣先の家の人からそれを貰ったと言っていた。幸運にも、そこの子供が雪よりも少しだけ年上だったと言う。確かに教材の発行年を見ると、少し前のものであったため、雪の受験対策にも問題なく使う事ができた。
 そうして母は一人娘を受験会場まで連れていった。結果として、雪は試験に合格して、県内でも屈指の私立の進学校に入学した。
 母はどうやって入学の資金を工面したのか。なにもないところから、お金は湧いてこない。
 母は独自のツテと言うのか、コネと呼べるものを持っていたのだ。
 しかしそれは、当時の雪が簡単に想像できるようなものではなかったのだけど。

 雪が教室での違和感をはっきりと意識できるようになったのは、中学三年生になってからだった。
 正確には、五月の連休に大火傷を負った後だ。
 雪は不運にも火事に巻き込まれた。それは母と訪れた県北の渓谷近くにある温泉旅館での火事だった。そこで、彼女は上半身に酷い火傷を負ったのだけど、母の方がより深刻だった。彼女は逃げ遅れ、焼け落ちた旅館と共に炭になっていた。母の存在を証明したものは、僅かに残された焦げ目のあるカルシウム――骨のようなものだけだった。
 雪は県立総合病院に搬送された。その病院から退院できたのは六月になってから。そうして彼女は、ほとんど一ヶ月ぶりに三年一組の教室に足を踏み入れた。
 久しぶりに戻ってきた中等部の教室。
 雪は同級生たちから異分子を見るような冷たい視線を感じた。その感触に違和感を覚えた時、彼らの「声」が聴こえた。
 それはもちろん普通の会話ではない。それにその声は雪に向けられたものでもなかった。
 頭の中で不思議と響く同級生の声。
 声を発しているのは誰か?
 その誰かは直ぐには見つからない。だけどしばらくすれば、同じ言葉を口にする同級生が確かにこの教室の中にいた。
 つまり未来の声。
 それが十三秒先の声だった。
 ずっと耳をすませていると、いろんな声が聴こえた。中には雪に向けられたものもあった。ただし、そんな声も無視し続けてしまえば、自分にはなんの影響もないと分かってしまった。
 だけど未来の声ならば、この教室に戻る前から聴こえていたのだ。
 入院中には、医師や看護師、それに同室にいた火傷を負った女の子――魚津クミやその両親の声も聴こえていた。
 気にならない声なら、なにも反応しないだけ。それでほとんどの声はやり過ごせた。
 それでも。
 最初にあの子の声を聴いた時には、どうしても体が動いてしまったのだ。
 あの言葉――「先生が好きです」、「愛してる」の二つだけを絞り出す彼女の声に、自分の体が拒絶反応を起こしてしまい、どうしても耐えきれなかった。
 雪はふらりと立ち上がり、教室の中をさまよう。一言も喋った事のないクラスメイト。音もなくその机の前に立つ。流石にその場所でじっと立ったままでいると、そこにいる同級生もいつかは雪の存在に気がついてしまう。
 その同級生――早川恵が顔を上げた瞬間、
 「気持ちが悪い……」
 そんな声を漏らした。
 恵は目を丸くしていた。よほど驚いたのだろう。
 「止めた方が良いですよ」
 「な、なによ、あんた……」
 「下井津先生とあんな事をする(・・・・・・・)のは、本当に気持ちが悪いです」
 その時から、恵は雪に対して明確な敵意を向けるようになってしまった。