*
オークション・ゲームに参加したのは、いったい誰だったのか。
中等部三年の早川恵が、ゲームに参加したと仮定する。
ならば彼女が心から求めていたものはなにか?
他のプレイヤー――クラスの女子たちと共に、男性アイドルグループのオーディションの企画に夢中になってしまい、競争して求めていたのも。彼女のクラスで競売にかけられたのは、中等部の数学担当の教師――下井津悠なのかもしれない。
それが恋であり、愛と呼ばれる感情かどうかなんて、ヒロに分かる筈もない。分からないのだけど、恵が下井津に対して相応の価値を見出したのは事実だ。
恵の中の強い感情が、下井津悠の価値を高めたのだろうか。
それとも、同級生との競争によって――それは見栄や自尊心を掻き立てるものなのかもしれないが――彼女は参加料を支払い続けて、引き返せなくなくなるところまで行き着いてしまったのだろうか。
ならばオークションの参加者が、下井津悠である場合はどうなのか。
彼は、早川恵にどれほどの価値を見つけていたのか。
果たして下井津には、恵を巡って争う他の参加者がいたのだろうか。
その問いの正解――もしくは答えを得るためのヒントのようなものが、今、ヒロの目の前にある。
ヒロは中等部の事務局の近くにある掲示板の前に立っている。掲示板には一枚のA四サイズの紙がピンで留められている。
「下井津先生は、本当にこの学校を辞めたんですね」
雪は淡々とした口調で言う。彼女はマスクをつけていない。ヒロもそうだ。近くにはヒロと雪の二人しかいないのだから、誰にも文句を言われそうにない。貴重な昼休みの時間に、職員の人事異動を記した一枚の紙を見る生徒などほとんどいないだろう。
「そうみたいだね」
掲示された告知書に記載されているのは、「下井津悠」の名前。それに「自己都合による退職」の文字。
そこに記された日付は、もう数週間も前のものだ。
数週間前。下井津悠が、中等部の女子生徒と手をつないでホテルから出きた――そんな噂が校内では実しやかに広がっていた。
その噂がどうやら事実であると判明したきっかけは、中等部事務局のアカウントに写真が添付されたメールが送信された事だったらしい。メールは使い捨ての匿名のアカウントからの発信だったようで、未だに送信者は特定されていない。
だけど。
ヒロにはそのメールと写真を送付した人物に心当たりがある。
例えば、そう。
それは――早川恵の十三秒先の声を聴いてしまった少女なのかもしれない。
ならば下井津悠にとって、早川恵を巡るオークション・ゲームの競争相手は、柳田雪だったのだろうか。
その相手は、まともにオークションに参加していた訳ではないのだけど。
「あの先生は、本気で恵を愛してたのでしょうか?」
雪は淡々と言う。その声を聞けば、自分で訊いておきながら答えには、ほとんど関心がなさそうにも思えてくる。
「さあ、どうだろ……」
ヒロは小さくため息を吐く。
本気かどうか。
それはつまり、下井津悠は早川恵を手に入れるために、いったいどれくらいの価値を提示し続けたのか、と言う質問と同じ意味を持つのだろうか。
結果として彼は自分の職業――教職までも恵に差し出してしまった。それでも下井津はゲームの勝者ではない。
教職から離れた彼はまだこの町に住んでいる。下井津は駅前の学習塾に就職して、数学を担当する講師として働いている。そこは、全国展開を手がける大手学習塾の系列店でもある。人手不足が深刻なこのご時世では、採用に当たって不確かな噂話――もしくは不祥事などあまり気に留めていないのかもしれない。
こうして下井津は退場した。しかし敗者は彼だけではなかった。
なぜなら――。
《気持ち悪い! こっちに近づいてくんな!》
聴き慣れない少女の声が、ヒロの頭の中に響いた。
恐らく雪もその声を聴いたのだろう。
雪はもう告知書のある掲示板を見ていない。通路の先に顔を向けている。
数人の女子生徒がこちらに向かって歩いてきている。彼女たちは顎に白い不織布のマスクを引っ掛けて、互いの顔を近づけて喋っている。教師の目の届かないところでは、感染症対策の意識の高さはこの程度のものでしかない。
グレーのブレザーに濃緑のギンガムチェックのスカートを合わせた冬服の姿。中等部の女子たちだ。その中にヒロの見知った顔が一人だけ混じっている。
「恵……」
雪は静かに声をかける
早川恵は足を止める。
恵を囲むようにして歩いていた他の女子たちも、足を止めてこちらに顔を向けた。
「あの人と別れて、本当に良かった」
その瞬間、恵の目が大きく見開いた。
「気持ち悪い! こっちに近づいてくんな!」
恵は手を振り上げる。しかし途中で手を止めた。
以前の教訓――職員室での大立ち回りを思い出したのかもしれない。
恵は手を下ろして、プイと顔を背けた。そのまま足早に立ち去っていく。
女子たちは、そんな恵を追いかけていく。
――あれ、柳田でしょ。
――不気味って言うか、なんか感情なさそう。
――あの子の親、放火魔じゃなかった?
――そうそう。前に旅館に火をつけたってニュースで言ってなかったっけ。
――あ、それマジでヤバイやつ。口にしたら呪われるって……。
女子たちは下卑た笑みを浮かべて通り過ぎる。その内の一人はこちらに振り向いて、汚物を見るような一瞥を雪にくれた。
――恵って、最近ツイてないね。ストーカーにも狙われてたし。
――下井津って、まだ恵につきまとってんの?
――知らない……。
恵の声が遠くなっていく。
――あんなのが教師だったのなんて信じられない。
――ロリコンでしょ。
――キモいし、あり得ない。
キャハハ、と彼女たちは甲高い声で笑い合っていた。
オークション・ゲームに参加したのは、いったい誰だったのか。
中等部三年の早川恵が、ゲームに参加したと仮定する。
ならば彼女が心から求めていたものはなにか?
他のプレイヤー――クラスの女子たちと共に、男性アイドルグループのオーディションの企画に夢中になってしまい、競争して求めていたのも。彼女のクラスで競売にかけられたのは、中等部の数学担当の教師――下井津悠なのかもしれない。
それが恋であり、愛と呼ばれる感情かどうかなんて、ヒロに分かる筈もない。分からないのだけど、恵が下井津に対して相応の価値を見出したのは事実だ。
恵の中の強い感情が、下井津悠の価値を高めたのだろうか。
それとも、同級生との競争によって――それは見栄や自尊心を掻き立てるものなのかもしれないが――彼女は参加料を支払い続けて、引き返せなくなくなるところまで行き着いてしまったのだろうか。
ならばオークションの参加者が、下井津悠である場合はどうなのか。
彼は、早川恵にどれほどの価値を見つけていたのか。
果たして下井津には、恵を巡って争う他の参加者がいたのだろうか。
その問いの正解――もしくは答えを得るためのヒントのようなものが、今、ヒロの目の前にある。
ヒロは中等部の事務局の近くにある掲示板の前に立っている。掲示板には一枚のA四サイズの紙がピンで留められている。
「下井津先生は、本当にこの学校を辞めたんですね」
雪は淡々とした口調で言う。彼女はマスクをつけていない。ヒロもそうだ。近くにはヒロと雪の二人しかいないのだから、誰にも文句を言われそうにない。貴重な昼休みの時間に、職員の人事異動を記した一枚の紙を見る生徒などほとんどいないだろう。
「そうみたいだね」
掲示された告知書に記載されているのは、「下井津悠」の名前。それに「自己都合による退職」の文字。
そこに記された日付は、もう数週間も前のものだ。
数週間前。下井津悠が、中等部の女子生徒と手をつないでホテルから出きた――そんな噂が校内では実しやかに広がっていた。
その噂がどうやら事実であると判明したきっかけは、中等部事務局のアカウントに写真が添付されたメールが送信された事だったらしい。メールは使い捨ての匿名のアカウントからの発信だったようで、未だに送信者は特定されていない。
だけど。
ヒロにはそのメールと写真を送付した人物に心当たりがある。
例えば、そう。
それは――早川恵の十三秒先の声を聴いてしまった少女なのかもしれない。
ならば下井津悠にとって、早川恵を巡るオークション・ゲームの競争相手は、柳田雪だったのだろうか。
その相手は、まともにオークションに参加していた訳ではないのだけど。
「あの先生は、本気で恵を愛してたのでしょうか?」
雪は淡々と言う。その声を聞けば、自分で訊いておきながら答えには、ほとんど関心がなさそうにも思えてくる。
「さあ、どうだろ……」
ヒロは小さくため息を吐く。
本気かどうか。
それはつまり、下井津悠は早川恵を手に入れるために、いったいどれくらいの価値を提示し続けたのか、と言う質問と同じ意味を持つのだろうか。
結果として彼は自分の職業――教職までも恵に差し出してしまった。それでも下井津はゲームの勝者ではない。
教職から離れた彼はまだこの町に住んでいる。下井津は駅前の学習塾に就職して、数学を担当する講師として働いている。そこは、全国展開を手がける大手学習塾の系列店でもある。人手不足が深刻なこのご時世では、採用に当たって不確かな噂話――もしくは不祥事などあまり気に留めていないのかもしれない。
こうして下井津は退場した。しかし敗者は彼だけではなかった。
なぜなら――。
《気持ち悪い! こっちに近づいてくんな!》
聴き慣れない少女の声が、ヒロの頭の中に響いた。
恐らく雪もその声を聴いたのだろう。
雪はもう告知書のある掲示板を見ていない。通路の先に顔を向けている。
数人の女子生徒がこちらに向かって歩いてきている。彼女たちは顎に白い不織布のマスクを引っ掛けて、互いの顔を近づけて喋っている。教師の目の届かないところでは、感染症対策の意識の高さはこの程度のものでしかない。
グレーのブレザーに濃緑のギンガムチェックのスカートを合わせた冬服の姿。中等部の女子たちだ。その中にヒロの見知った顔が一人だけ混じっている。
「恵……」
雪は静かに声をかける
早川恵は足を止める。
恵を囲むようにして歩いていた他の女子たちも、足を止めてこちらに顔を向けた。
「あの人と別れて、本当に良かった」
その瞬間、恵の目が大きく見開いた。
「気持ち悪い! こっちに近づいてくんな!」
恵は手を振り上げる。しかし途中で手を止めた。
以前の教訓――職員室での大立ち回りを思い出したのかもしれない。
恵は手を下ろして、プイと顔を背けた。そのまま足早に立ち去っていく。
女子たちは、そんな恵を追いかけていく。
――あれ、柳田でしょ。
――不気味って言うか、なんか感情なさそう。
――あの子の親、放火魔じゃなかった?
――そうそう。前に旅館に火をつけたってニュースで言ってなかったっけ。
――あ、それマジでヤバイやつ。口にしたら呪われるって……。
女子たちは下卑た笑みを浮かべて通り過ぎる。その内の一人はこちらに振り向いて、汚物を見るような一瞥を雪にくれた。
――恵って、最近ツイてないね。ストーカーにも狙われてたし。
――下井津って、まだ恵につきまとってんの?
――知らない……。
恵の声が遠くなっていく。
――あんなのが教師だったのなんて信じられない。
――ロリコンでしょ。
――キモいし、あり得ない。
キャハハ、と彼女たちは甲高い声で笑い合っていた。

