豹紋もどき

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 ドル・オークション・ゲーム。
 米国通貨の一ドル。当たり前なのだけど、そこには一ドル分の価値しかない。
 では、その一ドルをオークションにかければ、どうなるのか?
 オークションの参加者たちは、最初は一ドル以下の金額を提示するのだろう。そうでなければ旨味がない。
 ヒロが参加するのなら、最低の金額――例えば、「一セント」の金額を提示するのかもしれない。たかが一セントを払っただけで、百倍もの価値のある一ドルが手に入る。それならゲームに参加するのも悪くはない。差額の九十九セントが自分の利益になるのだから。
 ただし、それは全ての参加者が考える事でもある。このゲームに勝つには、他者よりも高い金額を提示しなければならない。
 ならば、と参加者たちは金額を吊り上げ始めるのだから、オークションでは理想的な最低金額――つまり、一セントで一ドルが手に入る訳ではない。こうでなくてはゲームにならない。
 それでは、オークションで一ドルを手に入れるために、いったいいくらの金額を提示すれば良いのか?
 ヒロが父からこの話を聞いたのは、ほんの半年前だった。
 四月下旬。五月の連休に入る前だった。場所は、十九時過ぎの鏑木家のダイニング。そこに珍しく父がいた。父は学生時代に自分で起こした会社を経営している。普段の彼ならこの時間はまだ会社にいる筈だった。
 里佳子は物静かにご飯を口に入れていた。父がいる時には、彼女は一言も喋らない。
 家政婦が用意した夕食――鯖の味噌煮、ほうれん草のおひたし、里芋の煮っころがし、椎茸の入った味噌汁――そんなものを、里佳子はなにも言わずに口に運んでいた。
 父はビールのグラスを手にしながら、ドル・オークション・ゲームの理論をまるでミステリー仕立ての深い謎のように話していた。
「ゲームにはルールが必要だ」
 彼は優しい目をして言った。
「ルール?」
「そう。誰かが得をして、誰かが損をするためには、絶対に必要になるものとも言えるな」
 父は一気にビールを呷る。ぷはぁ、と満足気な声を漏らす。アルコールの匂いが、ヒロの鼻まで届いてきた。
「限られたパイを奪い合うのだから、オークションの参加者全員が得をする訳にはいかないだろう。それに得をするのは、なにも参加者だけとは限らない」
 彼は笑うと目尻の皺が深くなる。
 父はアラフィフ――四十代の後半だ。彼の豊かな黒髪には、白髪がチラホラと目立ち始めている。
「だからこそ、ドル・オークションが本当のゲームになるには、簡単なルールを作らなければならない。ヒロにはそれがなんだか分かるか?」
 ヒロは逡巡した挙句、首を横に振った。
 父は笑みを深める。
「『参加者は何度も金額を提示できる。しかし一度提示した金額は、絶対に支払う必要がある』と言うルールだ。まあ、参加料を求めるようなシステムだね」
 ふん、と父は鼻を鳴らす。
「このルールがあるだけで、参加者は一ドルを求めるのにそれ以上の対価を支払ってしまうんだ」
 面白いと思わないか、と父はヒロの顔を覗き込みながら言う。
 そう言われても、ヒロにはまだ「ルール」の意味が分からない。
 一ドルのオークションに参加するのに、果たしてそれ以上の対価――例えば二ドルや三ドルの金額を本当に払ってしまうものだろうか。必ず損をすると分かって、オークションに参加するプレイヤーなどいない。
 そんなバカは、少なくとも自分ではない。
 そう思って、恐らく釈然としない顔でもしてしまったのだろう。
 父は「ふむ」と声を漏らして、手にしていたグラスをテーブルに置いた。
「例えば、ヒロが参加した場合を考えようか」
「ぼくが?」
「お前なら、最初にいくらの金額を提示するんだ?」
 それなら答えは簡単だ。
「それは、やっぱり、九十九セントだけど……」
 父の口角が上がる。
「お前が九十九セントで手を挙げれば、お前の競争相手――つまりオークションの他の参加者たちも、お前と同じように九十九セントを提示するんじゃないか? そうしないと負けてしまうからな」
 バカじゃない参加者はヒロだけではない。
 ゲームの勝敗に拘れば、最初に最高額を提示した者が勝つに決まっている。
「ヒロは次にどうするんだ? もうお前は、九十九セントを支払ってゲームに参加してしまった。やめるとそれを失うぞ」
 競争相手も同じ金額を提示するのなら、ゲームの勝者は決定しない。
 その時点で全てのプレイヤーたちは、九十九セント分の損をしただけになっている。
 最初に賭けた九十九セントはもう支払ってしまった。だけど、勝敗は決していない。つまり、ここでゲームを終わらせるためのインセンティブはどこにもない。勝つためには、九十九セント以上を提示する必要がある。しかし二度目の金額を提示してしまうと、参加者は一ドル以上の価値をこのゲームに賭けてしまう事になってしまう。
 どう足掻いても損をする。
「どうするって――」
 その時の父の顔に貼りついた笑みを目にして、ヒロは背筋が冷たくなった。