豹紋もどき

 ヒロが過ごした中等部の三年間。
 当時、彼のクラスの数学担当は女性の教員だった。だからヒロは下井津悠の授業は受けた事はない。それどころかヒロは下井津とは一度も言葉を交わした事がなかった。
 ただ、中等部の職員室に入った時に彼の姿を目にした事はあった。だからこの教師の事を全く知らなかった訳ではない。
 そもそもこの学校の教員の平均年齢は高いため、アラサーとは言え、比較的若手の存在の下井津は目立つのだ。
 彼に限って言えば、教員らしくない長めの髪を綺麗に流しており、服装や自分のメガネにも拘りがあるようで、外見はこざっぱりとしている。彼がまだ二十代だと言われても、それほど違和感はない。
「ヒロ、どうしますか?」
 雪は、片側三車線の幹線道路の歩道に立っている。
 彼女は道路の向こう側をじっと見つめたまま身じろぎもしない。
「…………」
 ヒロはなにも答えない。
 九月中旬。十八時を回ったばかり。
 日没の時間が過ぎてはいるが、辺りはまだ明るい。
 道路の向こう側には、ビジネスホテルの駐車場が見える。そこに一台の白いスポーツタイプの車が停車している。
 ちょうどその車の運転席のドアが開いて、下井津悠が姿を見せた。
 学校では白いシャツにグレーのスラックスを身につけていた筈なのに、今は黒のカットソーにジーンズと言ったラフな姿になっている。その格好ならば、進学校に勤めるアラサーの教師ではなく、大卒上がりのフリーターと言っても通用するのかもしれない。
 彼は一人でビジネスホテルに入っていく。
 これからフロントでツインルーム一泊分の手続きをする。
 宿泊者は二名。もう一人の宿泊者は彼の妹と言う事になっている。彼の妹は、これから少しだけ遅れて合流する――。
 十三秒前に聴こえた彼の声で確認できたのは、そんな内容だった。駐車場に停めた車の中で交わされた会話でもあった。
 ならば、下井津はそこで誰に話しかけていたのか。
「ヒロ、どうしますか?」
 雪は同じ言葉を繰り返す。
 心なしか、答えを急かすような口調になっている。
「いや、どうするって……」
 ヒロの手が震える。
 ここでなにかをする資格や義務が自分にはあるのか――何度もそう自問する。人の情事に介入しても良い事など一つもない。そんなものに関わりたくもない。
 彼はギリと唇を噛み締める。
 口の中にはなにもない筈なのに、ずいぶん苦い味がしたように感じた。雪に誘われて、なにも考えずにここまで来てしまった事を後悔する。
 しかし雪の鳶色の目はこちらに向けられたままだ。
 その目が語る。
 これは錯覚だと思いたいが、そうではない。
「どうしますか?」と雪は訊いているのではない。
「どうにかしてください」と訴えているのだ。
 それはまるで脅迫ようでもあった。
 駐車場の白い車の助手席のドアが開く。
 現れたのは、薄いピンクのフードパーカーの少女だった。フードを目深に被っているため、表情は良く分からない。濃緑のギンガムチェックのスカートを合わせている。中等部の制服なのだから、パーカーと合わせるとずいぶん違和感がある。
 その少女――早川恵は、手にしたスマートフォンの画面をじっと見つめている。
 彼女の携帯電話の画面には、恐らくショートメッセージでホテルの部屋番号が送信されている筈だ。
 これも車内での事前の打ち合わせ通り。
 彼女は下井津悠の妹を偽って、これから彼の待つ部屋に向かうのだろう。
「あの子をここまで連れてきます」
 雪はそう言い放った。
 幹線道路を横切る歩道の信号が変わった。車の流れがピタリと止まる。
 雪は横断歩道に向かって飛び出そうとする。
 恵はゆっくりとホテルの入り口に近づいていく。
「ちょっと待って、柳田!」
 ヒロは思わず雪の手を摘んだ。
 雪は怪訝な顔を向ける。
「どうして止めるのですか?」
「どうしてって、それは――」
 雪は恵に嫌われているのだ。もう一度頬を叩かれるかもしれないのだから、もうあの子に関わる必要はないのではないか。そんな正論だけならいくらでも口から出せる。それでも、言葉が続かない。
「あの子がこれからあそこでする事を、ヒロは本当に分かってますか?」
 雪はヒロから目を逸らさない。
 彼女が本当に見ている景色は、今、この瞬間のものではないような気がしていた。
 「あれは(・・・)何度もされると、気持ち悪くなります」
 雪の声には、小さな体の中に押し込められ、固められ、潰されていた強い感情が少しずつ漏れ出している。
 ヒロは思い切り唇を噛み締めた。自分の肉を髪きったのか、鋭い痛みと共に血の味がした。鉄の錆びた味だ。
 気分が悪くなるのは、この味のせいだけではない。
 ここで雪を止める事は果たして正解なのか。それが分からない。
 それでも――。
 もうこんなもの(・・・・・)には、自分も雪も二度と関わるべきではない。
 グイと力を込めて、雪の手を引く。半袖の夏服から伸びた剥き出しの雪の腕が露わになる。細い腕に刻まれた、赤黒い火傷の跡。それを目にしてしまえば、ヒロは呪いにかけられたように動けなくなってしまう。
 雪は無言のまま、腕を思い切り振り切った。ヒロはいとも簡単に彼女の細い腕から手を放してしまう。
 そうして雪が走り出そうとした瞬間――。
「あら、ヒロ?」
 聴き慣れた声がした。中年の女性のものだ。
「それに雪ちゃんも」
 恐ろしく陽気な声だった。
 雪の動きがピタリと止まる。
 振り向くと、そこにヒロの母――鏑木里佳子が立っていた。肩の辺りで綺麗に切り揃えた黒髪が揺れる。
「あなたたち、なにしてるの?」
 母と学校帰りに町中で出会うのは、ヒロにとって初めての経験だった。
「母さん、珍しいね」
 自分の声が震えている。自覚しても、その震えを抑えられない。
「あら、そう」
「こんなところで会うとは思わなかったよ」
「なに言ってるの。スーパーは直ぐそこにあるんだから、この辺りには良く来てるわ。お買い物に行かないと、あなたたちの夕食だって作れないじゃない」
「買い物って……」
 ヒロは絶句する。
 もうなにを言って良いのか分からない。
 こんな時に限って、十三秒先の声は都合良く聴こえてこない。そもそも今の里佳子の声を聴く事など、どう足掻いても不可能なのだ。
 なぜなら――。
「おばさん、今夜のご飯はなんですか?」
 雪が感情を押し殺した声で里佳子に尋ねる。
「えっと、ね……あら?」
 里佳子は、自分の手を眺める。もちろん彼女はなにも持っていない。肩に引っ掛けているモスグリーンの革製のトートバックは、そのブランドの価値を見ても夕飯の材料を突っ込んで良いほど安っぽいものではない。そこにはなにも入れていないのだろう。バックには全く厚みがない。
 明らかに彼女はスーパーで食材を買っていた訳ではない。そして、スーパーはここから数キロ離れた場所にある。
「ヘンね。どうしたのかしら……」
 その事実を、里佳子だけが知らない。
「帰りましょう」
 雪はゆっくりと相好を崩す。それは明らかに作り物の笑顔だった。
「え……ええ、そうね」
 里佳子はホッと安堵したような声で言う。
 ただ、母の目はまだ自分の両の手のひらに向けられたままだった。なにも持っていない白い手。それは四十代半ばとは思えないほど張りがある。
 雪はこちらに向かって小さく頷いた。
 十三秒先の雪の声は聴こえない。
 彼女はもうなにも喋らないつもりなのだ。未来の言葉がなければ、その声も聴こえる筈もない。
 幹線道路の向こうにあるビジネスホテル。
 駐車場にもロビーにも、早川恵の姿はなかった。彼女は既に下井津悠の待つ部屋に行ってしまったのかもしれない。