晴れた日でも雨傘をさして

 5時に起きなくてはいけないのに、僕は目が冴えて寝られず、アトリエのドアを開けた。
 テレピンの匂いが、懐かしく思えた。
 キャンバスが並んでいる棚から、F4号を取り出す。
 普段、描いているサイズよりかはかなり小さいけど、ここで仕上げるならこの程度の大きさじゃないと無理だ。
 イーゼルに置き、その前に座る。
 カーテンを開けると、月明りを遮るものがないためか、部屋がほんの少し明るくなった。

 僕は、さっきの萱の話を反芻していた。
 繊細な面があるのは知っていた、かといって暗い人間だとは思っていない。
 人は多角的な要素で作られている。
 明るくて、軽いところも萱の一面だし、傷つき、弱い自分を隠そうとするプライドの高さも萱の一面だ。
 人は何かを隠そうとする……
 
『傘で隠したいことがあるから、でしょ』

 美瑛ちゃんに言われた言葉に、僕は確信をつかれたようで息苦しくなった。
 隠したいこと……
 自分の中ではぼんやりとした答えは出ている。
 じゃあ、他の人は?
 僕は、絵を描く前に、やってみたいことが出来た。

🔸🔸🔸

「え? アンケート?」
「はい。アンケートっていうかインタビューみたいな感じです」

 翌日の昼食の後、僕はよしかずさんに声を掛けた。
 塚田先生は、道の駅に行って、ログハウスには僕と萱と、よしかずさんだけだった。
 萱は、昨日僕に打ち明けたことが恥ずかしかったのか、微妙に僕と距離を置いていて、今もリビングではなく二階の部屋にいる。
 リビングのソファには、僕とよしかずさんしかいない。

「いいけど、何かな? 緊張するね」
「よしかずさんは、僕のあの暗い雨傘の絵を好きと言ってくれました。正直、僕が傘の絵を描き始めたのは、担任の先生に……その……」
「うん。そのあたりのことはちょっと塚さんから聞いたから話さなくてもいいよ」

 僕はセクハラという言葉を使いたくなかった。
 それを受けている被害者という立場に僕自身をしたくなかったから。
 でも、よしかずさんはそれを察知してくれた。

「ああ、はい。そのことがきっかけで、ああいう絵を描くようになって。それは、隠したいことがあるからなんです。たぶん……」
「たぶん? そこはわからないの?」
「ぼんやりしてます。ただ、認めたくないだけかも」
「うん。うん」

 話しながら、自分自身のカウンセリングをしているような気になっていた。
 よしかずさんの優しい相槌が余計にそう思わせてくれる。

「よしかずさんは、あの絵を好きと言ってくれました。その理由は何ですか? もしかしてよしかずさんにも隠したいことがあるからなのかなって」

 僕の言葉に、一瞬よしかずさんの目が見開いた。
 僕は聞いてはいけないことを言ってしまったのかと、少し焦った。

「島谷くんは、カウンセラーみたいだね」
「すみません。なんか失礼だったかも……」
「……雨傘は嫌いなんだ。清里はよく雨が降るけど、僕は傘をささない。そうすると塚さんは風邪を引くからさせって怒って、よくケンカになる」

 よしかずさんはそう言うと、席を立ってキッチンに行った。
 僕はソファに座ったまま、手持無沙汰でこのまま話をやめた方がいいのかと逡巡していた。

「話が長くなりそうだから、ハーブティー煎れた。飲みながら話そう」

 湯気が立ったカップを僕の前に置いた。

「ありがとうございます」
「僕は香港から日本の大学に留学したって言ったよね」
「はい。そこから日本の企業に就職したって」
「うん。本当は日本の大学を卒業したら、香港に帰るつもりでいたんだ。でも帰らなかった。僕はエスケープしたんだよ。自分の生まれ故郷から」

 よしかずさんは、両手でカップを持ちながら、ずっと視線を落したまま話し続ける。

「香港の民主化デモって知ってる? 2014年に大規模な反政府デモが起きた。雨傘運動って呼ばれていてね。催涙スプレーから身を守るために雨傘を使ったんだよね。その時僕は、24歳で東京にいた。香港の友人たちが何人もそのデモに参加していた。でも、僕はそれを平和な日本で断面的に流れてくる映像を見ているだけだった。帰ろうと思えば帰れたし、参加しようと思えば参加できたのに。デモは断続的に続いて、2019年に日本でもかなり大きなニュースになったけど最悪なことが起きた。僕の友人も逮捕を逃れるために海外に逃げた。僕は何もしないまま逃げたんだ。香港人としてのプライドも何もないまま、ずっと日本で生活をする選択をした。だからね、僕は雨傘をさす資格はないんだよ」

 僕はかなり軽い気持ちでインタビューをすると言ったことを、後悔した。
 まだ良く知らない高校生に対して、よしかずさんが隠したいことを、ここまで告白してくれたことに、申し訳ない気持ちになった。
 僕が聞いていい話だったのだろうか……
 デモに参加するなんて、全く僕には想像できないことだった。
 それで国を追われて海外に逃げるって……
 ずっと口角を上げて、微笑んで話してくれていたよしかずさんの、諦めたような表情を初めて見た。
 
「よしかずさんが雨傘はカラフルなものじゃないって言ったのは……」
「うん。僕にとっては催涙スプレーで真っ白になってしまった傘しか思い浮かばないんだよね。だから、あの絵は僕の真情にすごく寄り添っている気がした」

 僕が傘に色を入れなかったことと、よしかずさんが傘に色がなかったことの受け取り方は違うけれど、でも誰かに何かが届いていた。
 少しはよしかずさんの気持ちが楽になったのなら、それは純粋に嬉しかった。

「話しにくいことを、話してくれてありがとうございます」

 僕は頭を下げた。

「ありがとう。僕はすごくスッキリ、爽快? な気分になった。今まで塚さんにしか話したことなかったから、島谷くんみたいに若い高校生が聞いてくれて嬉しい」

 よしかずさんが僕に微笑んでくれたから、僕も肩の力が少し抜けた。

「島谷くんの役に立ったかな?」
「はい。十分すぎるほどです」
「なら、良かった。次は誰にインタビューするの? 美瑛ちゃん? 塚さん?」
「あー、まだ決めてないです……」

 それぞれの隠したい事情に足を踏みいれていいのか、少し迷い始めていた。