晴れた日でも雨傘をさして

 小さい頃から絵を描くのは好きだった。
 お母さんの方のおじいちゃんが、油絵を趣味で描いていて、夏休みやお正月におじいちゃんの家に行くと、横に座って絵を教えてもらっていた。
 都内の小学生を対象にしたコンクールで、夏休みに行った清里高原の風景画で最優秀賞をもらったりした。
 だから、将来は美大に入りたいと子供ながらに思っていた。
 でも、両親はそれを許してはくれなかった。

「絵なんて、お金にならないんだから。部活や趣味にしておいてね。おじいちゃんだって、本業は社長さんなのよ。柚ならわかるわよね?」

 お母さんは、ことあるごとに僕をそう諭した。
 幼い僕は、美大に行ってはダメだということと、社長さんになれと言われているのかと思っていた。
 だから偏差値の高い大学に行くために、中学生の時は部活も入れずに、塾へ通う毎日だった。
 絵を描くのは、勉強の合間だけ。
 国公立大の進学率が高い海津高校(かいづこうこう)に受かった時は、これで晴れて部活で絵が描けると嬉しくなった。
 でも、進学校で部活に力を注ぐ生徒はそれほどいなかった。
 部活はあるものの、真剣に取り組む生徒は限られていた。
 それでも、僕は周りに流されず美術部で絵を描けることに夢中になっていた。
 ただ、成績がどんどん落ちていく僕に、二年生になった時、両親からは部活を辞めろと言われた。

「どうして? 部活だよ? 学校の活動だよ? 辞める理由なんてない!」
「でも、成績がこんなに落ちているでしょ? 学校は勉強するところでしょ? 絵なんて大学入ってからでもいいでしょ?」
「嫌だ! 絶対に辞めない!」
「じゃあ、成績を上げろ! 10位以内に入ったらお父さんが許す!」
「理不尽だよ!」
「あなたの将来のためなの。言うことを聞きなさい!」

 延々と、不毛な会話を続けていた。
 僕がうんと了承しない限り、この会話に終わりはない。
 余計に、僕は勉強が手に付かなくなっていた。
 そして、最悪なことが起きた。
 両親が、二年の担任になった戸谷先生に相談をした。
 担任に自分の息子の愚行を相談することは、親としては当然のことかもしれない。
 でも、それによって戸谷先生は必要以上に僕に接触するようになった。

「ご両親から相談されてね。島谷くんのこれからについて」
「はい……」
「美術部は楽しいか?」
「はい。僕の生活を潤ってくれます」

 GW明けの放課後、戸谷先生に初めて呼び出された。
 職員室ではなく、科学室に。
 ステンレスのテーブルが幾つも並ぶ部屋で、横並びに座った。
 その時点で、僕は少し違和感を覚えた。

「へー。塚田先生はあんなにガサツだけど、美術教師としてはどう?」
「え?」

 同僚に対しての言い方に棘を感じた。
 違和感が膨らんでいく。

「塚田先生の描く絵は、とても繊細で有名な絵のコンクールで優勝しただけあると思いました。とても尊敬しています」
「はー。そんなもんかね? 先生は柚とは価値観が違うけどね」

 いきなり、柚と名前を呼ばれた僕は、ぞわっと全身が総毛立った。

「でも、先生が一番柚の良さをわかっているよ。絵を描くのもストレス発散にはなるだろうけど、今は勉強を頑張る時だろ。もし、苦手なものがあれば休日でも先生が個人的に見てあげてもいいんだぞ」
「は? い、いえ大丈夫です」
「なに遠慮してるの。先生も高校時代は部活に力を入れたかったけど、順位争いの方が楽しかったな。柚もやる気を出せば十分な伸びしろはあるんだから、一緒に頑張ろう」

 戸谷先生は、僕の肩を強く掴むと、そのまま撫でた。
 僕は思わず立ち上がると、抱えていたカバンが床に落ちた。
 先生はゆっくりとそのカバンを拾うと、下から舐めるように僕を見上げた。

「大事なカバンを邪険に扱っちゃダメだろ?」

 先生は僕の掌を握ると、その上にカバンを乗せた。

「定期的に、ここで先生と話そうか?」
「え? いえ、大丈夫です」
「どうして? 柚が悩んでいることや、今後の進路指導も先生が個人的に相談にのってあげるよ?」
「いえ、大丈夫です」
「冷たいなー。男同士だろ? なんでそんな緊張することあるんだよ」

 先生が僕との間を詰めてくる。
 僕はじりじりと、後ろに下がり続けると、窓にぶつかってしまった。
 そうだよ、男同士なのに、どうして先生はこんな風に僕に接するんだろう。

「危ないよ! 柚が落ちたら大変だ」

 先生は僕の腕を掴んで引っ張った。
 その勢いで、僕は先生の胸の中に抱えられるような姿勢になっていた。
 先生が僕の耳元に自分の口を近づけてきた。

「す、すみません!」

 咄嗟に僕は身体を離そうとするけど、先生は僕の右腕を放してはくれない。

「い、痛いです! 先生、戸谷先生!」

 自分でも驚くほど大きな声を出していた。
 その声に先生が手を放すと、僕はバランスを崩してしりもちをついた。

「大丈夫か? 柚?」

 また、先生の手が伸びてきたのを振り払い、僕は逃げるように科学室を出た。
 今、何が起こったのか、振り返りたくなかった。
 戸谷先生が怖い!
 それだけが、頭の中でループしていた。