晴れた日でも雨傘をさして

 17歳にもなって、こんなことする奴っているのかな。
 バスに乗り込み、パンパンに膨らんだデイバックを前に抱えて座席に座ると、小さくなっていく我が家を車窓から見送った。
 まだ、朝の6時だというのに、既に気温は30度に迫ろうとしていた。

 高校二年生の夏休み、僕は家出をした。

🔸🔸🔸

(ゆず)戸谷(とたに)が呼んでるぞ」
「え? マジ?」

 高校二年の6月末。
 やっと期末テストが終わり、解放感に浸っていたのに、いきなり担任に呼ばれた。
 海津高校(かいづこうこう)は男子しかいない進学校。
 周りは、友達というよりかはライバルだ。
 常に、成績上位を狙い、上がったか、下がったかを競い合っている。
 僕は入学した時点で、既に誤った選択をしてしまったと後悔していた。
 毎日が、息苦しい。
 でも、そんなことを親に言えるわけもなかった。
 自ずと、成績は下降傾向。
 今、担任に呼ばれたのだって、半分の理由は察しがつく。
 でも、あとの半分は……

「今回の期末はどうだった? 手ごたえはあったか?」

 担任の戸谷先生は、この学校の卒業生だ。
 国立大学を出たのに、何が面白くて母校の教師なんかになったのか。
 戸谷先生の銀縁の眼鏡の下の瞳は、常に冷めている。
 どれだけ口角が上がっていても、それを誤魔化すことはできない。
 
「……わかりません」
「ふむ。そう言うと思ったよ。で、夏期講習はどこ受けるんだ?」
「……決めてません」
「柚、本気で国公立狙う気はあるのか?」

 柚……どうして、名字じゃなくて名前を呼び捨てにするのだろう。
 島谷柚(しまたにゆず)
 僕にも名字はある。

「……わかりません」

 職員室には、戸谷先生と僕しかいなかった。
 他の先生はどこにいるんだろう?
 職員室という閉鎖的な空間に二人だけということに、緊張と不安から手に汗をかいていた。
 向かい合って座っていた、先生の顔が一段階僕の顔に近づいた。
 かすかに煙草の匂いが鼻をかすめて、僕は思わず顔を避けた。

「先生と話しているんだから、顔を背けるなよ……」

 甘い声を出しながら、先生の手が僕の顎に伸びてこようとした時、背面から声が聞こえた。

「島谷! この間の絵も上手く描けてたなー」

 思わず振り返ると、豪快に笑っている大柄な美術教師の塚田(つかだ)先生が立っていた。
 僕は、すがるような目をしていたのかもしれない。
 塚田先生が、小さく頷いたように見えた。

「ああ、戸谷先生、すみません。お話し中に声を掛けてしまって」
「い、いえ……。もうわかったから、帰りなさい」

 さっきまでの、甘い声は姿を消し、ぶっきらぼうに言い切った。
 僕はおずおずと、席を立つと戸谷先生に「失礼します」と頭を下げた。

「ちょっと、美術室に来いよ」
「は、はい……」

 前を歩く大柄な塚田先生の後に続いた。
 後ろでは、何かを机の上に叩きつける音が聞こえた。

 塚田先生が、スライド式の美術室のドアを勢いよく開けると、その反動で閉まりかかったドアに、一瞬僕は挟まりそうになった。

「おお、わりぃ、わりぃ。これだから乱暴だとかガサツだとか言われるんだよな」

 頭を掻きながら、言葉のわりには反省していない感じが、塚田先生の良さだ。
 僕はなんでもオープンに話す塚田先生を信頼していた。

「さ、さっきはありがとうございます……」

 お礼を言うのも、おかしなことだとは思ったけど、口を吐いていた。
 塚田先生は、ニカッと笑うと、音を立てて椅子に座った。
 確かに、ガサツだ。
 美術教師という、芸術的な繊細さは感じられない。
 どっちかというと、体育の教師みたいだ。

「まあ、座れよ」

 僕は、少し距離を置いて座った。
 まだ、色も塗ってないデッサン中の僕の絵がイーゼルに立てかけられたままだ。
 だから、さっき先生が言った「よく描けてたなー」は嘘だ。

「相変わらずなのか? あいつは」
「……よくわからないです。でも、帰りに待ち伏せされることはなくなりました」
「俺が校長に言ってもいいんだぞ?」
「いえ、大丈夫です。塚田先生にご迷惑はかけられませんから」
「そういう問題じゃないだろ? 教師の生徒に対するセクハラだろ?」

『……柚は希少価値なんだよ、この学校では。だから先生が君に不利益が生じないように守ってあげるから』

 戸谷先生に言われた言葉が頭をよぎる。
 セクハラ……

「でも、具体的に何かをされたわけではないので」
「ああやって、密室で、顔を異様に近づけている時点で問題だろう」

 僕が塚田先生に、助けを求めたわけじゃなかった。
 ただ、僕が描く絵の変化に、先生が気づいた。
 絵を描くのが好きで入った美術部。
 何の束縛も無く、順位を争うこともなく、真っ白なキャンバスに自分の好きなように描けることが、唯一の息抜きだった。
 でも、いつからか戸谷先生とのやりとりからくるストレスを、絵の中で表現していた。

「……何かあってからじゃ遅いだろ?」
「でも、もうすぐ夏休みですから」
「だからさ、余計に第三者の目が届かなくなるだろう? あいつは君の家を知ってるよな」
「え……」

 盲点だった。
 でも、本当に戸谷先生が僕に何をしたいのかがわからなかった。

「……戸谷先生は僕をどうしたいのでしょうか」
「……わからん。ただ、一生徒が教師の理不尽な接触にストレスを抱えているのは事実だ」
「そうですね」

 そう言いながら、なんとなく他人事のようにも感じていた。