次の日。
二時間目が終わり、雨花は休み時間に遠目から草山良緒を観察しながら、美奈と話していた。
「ねえ、そういえば、みんなあの人のこと下の名前で、ラオって呼んでるよね」
雨花が疑問を口にすると、
「なぁに? 気になるの? 種沢のことはもういいの?」
と美奈が意地悪く言った。
「なっ、そんなんじゃないって! 種沢のことも違うって何回も言ったよね?」
雨花は少しムキになって美奈を睨んだ。
美奈はすぐ恋愛に絡めたがる。
しかし、実際雨花は、種沢のことは確かにいい奴だと思っているし、そういう気もないと言えば嘘になるが、そこまで本気でのめり込んでいるわけでもなかった。
「ごめん、ごめん。確かにみんな名前で呼んでるよ。変わってる名前だし、本人がそう呼んでって言ったしね」
「へぇ、そうな——!」
雨花は言いかけて突然うつむいた。
「どうしたん?」
美奈が目を丸くする。
「はは……目が合った」
雨花は苦笑いしてそう答えた。
ついに、掃除の時間がやってきた。
雨花は急いで反省カードを職員室前のボックスから取ると、音楽室へ向かった。
少し躊躇って音楽室のドアを開けると、既に草山良緒が一人であまり使われた形跡のない黒板を掃除していた。
(意外と真面目……)
そう思いながら、雨花は少し緊張気味に音楽室に入ると、ピアノの上に反省カードを置いた。
雨花が箒を出して床を掃いていると、草山良緒が黒板消しを持ったまま、例の曰く付きの穴を塞ぐポスターを見ながら、話しかけてきた。
「この下にある穴って、中に手ぇ入れたら呪われるんやろ?」
「えっ、うん、そう——ってちょっと!」
草山良緒がポスターを剥がそうとしているのを見て、雨花は慌てて止めた。
「ははー、びっくりしたか?」
草山良緒は、ただふざけていただけのようだ。
「もう、当たり前じゃん……」
雨花は彼のおちゃらけた顔を、呆れ顔でチラリと見た。
(なんかこの人、よくわかんないな……振り回される)
「根岸……やっぱりこの穴怖いか?」
(あ、初めて名前呼ばれたかも)
草山良緒が雨花のことを、『お前』以外で呼んだのは初めてだ。
ただし雨花の記憶の中では。
「まぁ、そりゃあ、ちょっとはね……草山くんは?」
雨花は遠慮がちに彼をそう呼んでみた。
みんなはラオと呼んでるけど、男子と滅多に会話しない雨花には、いきなり名前呼びはハードルが高過ぎる。
でも思い出せない記憶の中では、もしかしてみんなと同じく名前呼びだったのだろうか?
雨花は正解がわからなくて、不安げにチラリと彼を見た。
すると、草山良緒は笑いながら雨花を茶化した。
「草山くんって、どうしたんお前、気色悪い。みんなもお前もラオって呼んでたじゃん」
雨花はそう突っ込まれて心底慌てふためき、訂正する。
「え! ご、ごめん、ラオ」
ラオはそれを聞くと嬉しそうにニカッと笑った。
「それで、よし!」
この一件があってから、雨花はラオとだいぶ打ち解けることが出来た。
口下手な雨花にも遠慮なく話しかけてくるラオが、彼女には逆に話しやすかった。
今日は水曜日の放課後。
部活が終わり、雨花は帰る支度をしていた。
「あっ、また忘れた」
水曜日が塾だというのに、いつも勉強道具を学校に置きっ放しなため、教室に塾で使う教科書などをしょっちゅう忘れてしまう。
置き勉というやつだ。
雨花は下駄箱に荷物を置いて、先生にばれないように急いで教室へ向かった。
毎日のことだが、部活が終わるのが遅かったため校舎内は薄暗い。
忘れ物を回収して、一階の大きな古い鏡があるところまで、階段を降りたときだった。
——ゾワリと急に寒気に襲われた。
「あはは……はは……」
くぐもった不気味な笑い声が響いた。
雨花は息を呑んでその場に立ち尽くした。
辺りをキョロキョロと見渡す。
そういえば、この大鏡にも様々な怪談話が囁かれていたのを思い出した。
鼓中は校舎がかなり古いので、そういった噂話が絶えないのだ。
やけに静かな時が流れる……。
なにも起こらない。
気のせいか、と胸をなで下ろして歩き出そうとした、その瞬間——
「うわああ!」
雨花は絶叫した。
目の前の鏡に、血を滴らせた女の子の姿が映し出されたのだ。
その女の子は鏡からズルリと出てくると、恐ろしい形相で雨花を見据え、
「一緒に……来て……」
とおぼつかない足取りで、近づいてきたのだ。
雨花はまたもや悲鳴を上げて、震える足で下駄箱に向かおうとしたが、女の子の霊が曲がり角でいつの間にか立ち塞がっていた。
雨花は教科書を折れるほど抱きしめながら、慌てて降りてきた階段を、再び駆け上がって行った。
「うふふふ……あはははは……」
逃げ惑う背後で、不気味な笑い声がこだまする。
階段を一気に三階まで駆け上がった雨花は、震えながら立ち止まって、辺りを見渡し耳を澄ませた。
物音ひとつしない。
呼吸を整えながら、不意に横に顔を向けると、
「見……つけ……た……」
なんとさっきの女の子が、すぐそこに立っていたのだ。
雨花は金切り声を上げて、三階の廊下に転がり込むように逃げ込んだ。
そして無意識に、自分のクラスに駆け込んでいた。
「ふふ……あはは……」
雨花が自分のクラスに逃げ込んだのと同時に、三階の廊下に不気味な笑い声が響き渡った。
——雨花にとっては長い時間が経った。
恐る恐る教室を見渡す。
昼間見る教室とは、まるで違う場所に見える。
と、いつの間にかあの女の子が——教室の後ろから入って来ていた。
思わず、今まで大切に抱えていた教科書を、その場にぼとぼとと落としてしまう。
「どう……して……逃げる……の……?」
女の子は悲しげにそう言いながら、おぼつかない足取りで雨花の方へ向かって来る。
雨花は落とした教科書には目もくれず、教室から勢いよく飛び出した。
外階段へ続くドアは、既に施錠されていて開けられない。
そうこうしているうちに、女の子はどんどん迫って来る。
「あはは……はは……」
隣のクラスに逃げ込もうとしたが、足が震えて上手く動けず、雨花はとうとう廊下の一番奥に追い詰められてしまった。
「やっと……捕まえた」
目の前のその子は、もはや女の子とは言えないくらい恐ろしい形相で、ニタァッと笑った。
雨花はあまりの恐怖に腰が抜けて、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「一緒に……行こう……?」
女の子は血まみれの手を差し伸べてくる。
雨花は全身をガタガタと震わせながら、頭を抱えて縮こまりぎゅっと目を瞑った。
(もうダメ……!)
その時——
——ザンッと、なにかが、大きく風を切るような音がした。
雨花ははっと顔を上げた。
目の前に、真っ黒ななにかが立ちはだかっていた。
よく見ると、その正体は——草山良緒だった。
あの女の子の姿はもうどこにもない。
代わりに白い光の球が、溶けるように消えていくのが見えた。
雨花は、目の前に現れたラオを茫然と見上げた。
真っ黒な学ラン姿……でも異様に黒くて真っ暗で、ただひたすらに黒い。
本来なら白いはずのワイシャツの部分も黒い。
そもそも、彼はまだ夏服の制服だったはず。
中でも異様なのは、その手に握られた身の丈ほどもある巨大な鋭い鎌……。
そう、その姿はまるで——
「……死神……?」
二時間目が終わり、雨花は休み時間に遠目から草山良緒を観察しながら、美奈と話していた。
「ねえ、そういえば、みんなあの人のこと下の名前で、ラオって呼んでるよね」
雨花が疑問を口にすると、
「なぁに? 気になるの? 種沢のことはもういいの?」
と美奈が意地悪く言った。
「なっ、そんなんじゃないって! 種沢のことも違うって何回も言ったよね?」
雨花は少しムキになって美奈を睨んだ。
美奈はすぐ恋愛に絡めたがる。
しかし、実際雨花は、種沢のことは確かにいい奴だと思っているし、そういう気もないと言えば嘘になるが、そこまで本気でのめり込んでいるわけでもなかった。
「ごめん、ごめん。確かにみんな名前で呼んでるよ。変わってる名前だし、本人がそう呼んでって言ったしね」
「へぇ、そうな——!」
雨花は言いかけて突然うつむいた。
「どうしたん?」
美奈が目を丸くする。
「はは……目が合った」
雨花は苦笑いしてそう答えた。
ついに、掃除の時間がやってきた。
雨花は急いで反省カードを職員室前のボックスから取ると、音楽室へ向かった。
少し躊躇って音楽室のドアを開けると、既に草山良緒が一人であまり使われた形跡のない黒板を掃除していた。
(意外と真面目……)
そう思いながら、雨花は少し緊張気味に音楽室に入ると、ピアノの上に反省カードを置いた。
雨花が箒を出して床を掃いていると、草山良緒が黒板消しを持ったまま、例の曰く付きの穴を塞ぐポスターを見ながら、話しかけてきた。
「この下にある穴って、中に手ぇ入れたら呪われるんやろ?」
「えっ、うん、そう——ってちょっと!」
草山良緒がポスターを剥がそうとしているのを見て、雨花は慌てて止めた。
「ははー、びっくりしたか?」
草山良緒は、ただふざけていただけのようだ。
「もう、当たり前じゃん……」
雨花は彼のおちゃらけた顔を、呆れ顔でチラリと見た。
(なんかこの人、よくわかんないな……振り回される)
「根岸……やっぱりこの穴怖いか?」
(あ、初めて名前呼ばれたかも)
草山良緒が雨花のことを、『お前』以外で呼んだのは初めてだ。
ただし雨花の記憶の中では。
「まぁ、そりゃあ、ちょっとはね……草山くんは?」
雨花は遠慮がちに彼をそう呼んでみた。
みんなはラオと呼んでるけど、男子と滅多に会話しない雨花には、いきなり名前呼びはハードルが高過ぎる。
でも思い出せない記憶の中では、もしかしてみんなと同じく名前呼びだったのだろうか?
雨花は正解がわからなくて、不安げにチラリと彼を見た。
すると、草山良緒は笑いながら雨花を茶化した。
「草山くんって、どうしたんお前、気色悪い。みんなもお前もラオって呼んでたじゃん」
雨花はそう突っ込まれて心底慌てふためき、訂正する。
「え! ご、ごめん、ラオ」
ラオはそれを聞くと嬉しそうにニカッと笑った。
「それで、よし!」
この一件があってから、雨花はラオとだいぶ打ち解けることが出来た。
口下手な雨花にも遠慮なく話しかけてくるラオが、彼女には逆に話しやすかった。
今日は水曜日の放課後。
部活が終わり、雨花は帰る支度をしていた。
「あっ、また忘れた」
水曜日が塾だというのに、いつも勉強道具を学校に置きっ放しなため、教室に塾で使う教科書などをしょっちゅう忘れてしまう。
置き勉というやつだ。
雨花は下駄箱に荷物を置いて、先生にばれないように急いで教室へ向かった。
毎日のことだが、部活が終わるのが遅かったため校舎内は薄暗い。
忘れ物を回収して、一階の大きな古い鏡があるところまで、階段を降りたときだった。
——ゾワリと急に寒気に襲われた。
「あはは……はは……」
くぐもった不気味な笑い声が響いた。
雨花は息を呑んでその場に立ち尽くした。
辺りをキョロキョロと見渡す。
そういえば、この大鏡にも様々な怪談話が囁かれていたのを思い出した。
鼓中は校舎がかなり古いので、そういった噂話が絶えないのだ。
やけに静かな時が流れる……。
なにも起こらない。
気のせいか、と胸をなで下ろして歩き出そうとした、その瞬間——
「うわああ!」
雨花は絶叫した。
目の前の鏡に、血を滴らせた女の子の姿が映し出されたのだ。
その女の子は鏡からズルリと出てくると、恐ろしい形相で雨花を見据え、
「一緒に……来て……」
とおぼつかない足取りで、近づいてきたのだ。
雨花はまたもや悲鳴を上げて、震える足で下駄箱に向かおうとしたが、女の子の霊が曲がり角でいつの間にか立ち塞がっていた。
雨花は教科書を折れるほど抱きしめながら、慌てて降りてきた階段を、再び駆け上がって行った。
「うふふふ……あはははは……」
逃げ惑う背後で、不気味な笑い声がこだまする。
階段を一気に三階まで駆け上がった雨花は、震えながら立ち止まって、辺りを見渡し耳を澄ませた。
物音ひとつしない。
呼吸を整えながら、不意に横に顔を向けると、
「見……つけ……た……」
なんとさっきの女の子が、すぐそこに立っていたのだ。
雨花は金切り声を上げて、三階の廊下に転がり込むように逃げ込んだ。
そして無意識に、自分のクラスに駆け込んでいた。
「ふふ……あはは……」
雨花が自分のクラスに逃げ込んだのと同時に、三階の廊下に不気味な笑い声が響き渡った。
——雨花にとっては長い時間が経った。
恐る恐る教室を見渡す。
昼間見る教室とは、まるで違う場所に見える。
と、いつの間にかあの女の子が——教室の後ろから入って来ていた。
思わず、今まで大切に抱えていた教科書を、その場にぼとぼとと落としてしまう。
「どう……して……逃げる……の……?」
女の子は悲しげにそう言いながら、おぼつかない足取りで雨花の方へ向かって来る。
雨花は落とした教科書には目もくれず、教室から勢いよく飛び出した。
外階段へ続くドアは、既に施錠されていて開けられない。
そうこうしているうちに、女の子はどんどん迫って来る。
「あはは……はは……」
隣のクラスに逃げ込もうとしたが、足が震えて上手く動けず、雨花はとうとう廊下の一番奥に追い詰められてしまった。
「やっと……捕まえた」
目の前のその子は、もはや女の子とは言えないくらい恐ろしい形相で、ニタァッと笑った。
雨花はあまりの恐怖に腰が抜けて、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「一緒に……行こう……?」
女の子は血まみれの手を差し伸べてくる。
雨花は全身をガタガタと震わせながら、頭を抱えて縮こまりぎゅっと目を瞑った。
(もうダメ……!)
その時——
——ザンッと、なにかが、大きく風を切るような音がした。
雨花ははっと顔を上げた。
目の前に、真っ黒ななにかが立ちはだかっていた。
よく見ると、その正体は——草山良緒だった。
あの女の子の姿はもうどこにもない。
代わりに白い光の球が、溶けるように消えていくのが見えた。
雨花は、目の前に現れたラオを茫然と見上げた。
真っ黒な学ラン姿……でも異様に黒くて真っ暗で、ただひたすらに黒い。
本来なら白いはずのワイシャツの部分も黒い。
そもそも、彼はまだ夏服の制服だったはず。
中でも異様なのは、その手に握られた身の丈ほどもある巨大な鋭い鎌……。
そう、その姿はまるで——
「……死神……?」
