迷える透明な子羊。

ガラガラ、と教室のドアが開いた。
みんなの視線が一瞬でその場所に集まった。

まるで獲物が罠にかかった瞬間みたいだった。
入ってきたのは彼方だった。

肩にスクバをかけて、いつもと同じ少し猫背な歩き。
でも、彼はすぐに気づいた。
教室のおかしな気配に。

彼方は自分の席のほうを見た。
落書きと付箋で、ぐちゃぐちゃになった自分の机。

一瞬彼の足がピタッと止まった。
顔から、すうっと血の気が引いていくのが遠くからでも分かった。

「……なに、これ」
彼方が、ぽつりと言った。

誰も答えない。
みんな自分のスマホを見ている。

画面を見ながらクスクスと笑い声を漏らしている。
その笑い声が反響して耳が痛くなる。
彼方は、机の上の付箋を1枚剥がした。

そこに何て書いてあるか、私は知っている。
彼方の手が震えていた。

「誰がやったの?」
彼方は教室を見渡した。
その目が、私の方を向いた。

心臓がギューッと絞られるみたいに痛かった。
私は慌てて下を向いた。

机の木目をじっと見つめる。

(見ないで)
(私を見ないで)

頭の中でそればかり祈っていた。

昨日あんなに優しく話したのに。
私の名前を知っててくれて、嬉しかったのに。

彼方はゆっくりと自分の席にカバンを置いた。
落書きだらけの椅子に、そのまま座る。

誰も彼に話しかけない。
陸上部の仲間だったはずの男子たちも別の話をしている。

まるで、そこに彼方という人間がそこに存在していないみたいだった。
彼方だけが消しゴムで消されたみたいだった。

キーンコーンカーンコーン。
朝のチャイムが鳴った。

先生が入ってくる。
いつも通りの退屈そうな顔。
机の上の落書きにも教室の変な空気にも全く気づいていない。

「はい、席ついてー。出席とるぞ」

麗奈のストーリーには、次々と新しいコメントが書き込まれていた。

『マジでキモい』
『学校来んなよ』

文字がどんどん増えていく。

私は、自分のスマホをポケットの中で握りしめていた。
手汗で画面がヌルヌルする。

そのとき。ブブッ、とスマホが震えた。
心臓が口から飛び出そうなくらい鳴った。

画面をそっと見る。
彼方からの、メッセージだった。

『十愛』
『これ、違う。信じて』

2行だけ。
画面が、涙で滲んで見えた。

私は、彼の席を見た。
彼方は前を向いたまま、背中を丸めている。
スマホは机の下の手に握られている。

(信じたい)
(私は、あなたの本当の姿を知ってるから)

でも周りを見渡すと、みんながスマホに溺れている。
この頭のおかしな教室の中で、信じるなんて言ったら私はどうなる?

私は、画面を見つめた。
指がガタガタと震える。

どうしよう。
どうしたらいいの。

私は返信の画面を開いた。
そして文字を打ち込んだ。

『ごめん』
『もう、私に連絡してこないで』

それを、送信した。

送った瞬間、胸にナイフを刺したような痛みがした。
私はスマホをカバンの奥底に無理やり押し込んだ。

顔を上げると、窓の外はすごく綺麗な青空だった。
グラウンドが太陽の光でキラキラ光っている。

あそこはあんなに綺麗なのに。

彼方は、もうスマホを見ていなかった。
ただ、黒板をじっと見つめていた。