迷える透明な子羊。

放課後。
私は鞄を持ったまま、教室の窓からグラウンドを見た。

陸上部は、まだ来ていない。
「……帰ろ」
そう思って鞄を肩にかけたとき。

グラウンドの入口から彼方が入ってきた。

今日は1人だった。
いつもなら部員と一緒にいるのに。

彼方はトラックの脇に鞄を置くと、スマホを取り出した。
画面を見ている。

何か確認しているのかな。
私は無意識に窓へ近づいた。

すると、彼方が顔を上げた。
目が合う。

「あ」
彼方がこっちを指差した。

そして、口を動かす。
『来る?』

私は思わず周りを見た。
誰もいない。

自分を指差す。
『私?』
彼方が笑って頷いた。

……なんで。
でも断る理由もないし。

グラウンドへ降りる。
「ほんとに来た」

「呼んだのそっちじゃん」
「まあね」

彼方は笑いながら、ストレッチを始めた。
「今日、部活は?」
「もうすぐみんな来る」

「じゃあ、それまで1人?」
「うん」

「そっか」
私は少し離れたベンチに座った。

彼方が靴紐を結ぶ。
「十愛ってさ」

「ん?」
「いつもここから見てたよね」

「うん」

彼方が立ち上がる。
「毎日いるし」

「……恥ずかしいし」
「なんで?」

「いやぁ……」
「じゃあ、今日から堂々と見ればいいじゃん」

「それはそれで恥ずかしい」
「難しいなおい」

彼方が笑う。
私もつられて笑った。

「じゃ、一周だけ走ってくる」
「一周?」

「アップ」

「一周って言っても結構速いんでしょ」
「どうかな」

彼方がトラックへ向かう。
スタートラインに立つ。

合図もないのに彼方は走り出した。
一瞬で遠ざかっていくほど速い。何度見ても、やっぱり速かった。

今日は少し違って見えた。
いつも窓越しに見ていたからだろうか。
近くで見ると、全部はっきり分かる。

彼方はゴールすると、その場で少し前かがみになった。

「大丈夫そ?」
「うん大丈夫」
息を整えながら笑う。

「これくらいじゃ疲れないよ」
「嘘、顔赤いじゃん」

「走ったからでしょ」
「それもそうか」
2人で笑う。

そのとき、彼方のスマホが鳴った。
彼方が画面を見る。

さっきまで笑っていた顔が、少しだけ曇った。
「どうしたの?」

「……なんでもない」
スマホをポケットにしまう。

でも気になった。

「嫌な連絡?」
「いや」

彼方は少し考えてから言った。
「SNS」

「SNS?」
「最近、知らない人からメッセージ来るんだよ」
「なんで?」

「陸上の大会の写真、載せてるからかな」

「怖くない?」
「ちょっとね」

意外だった。
彼方は、そういうのを気にしないタイプだと思っていた。
いつも堂々としているし。

「でも、無視してる」
「それがいいと思う」
「うん」

彼方はスマホを見つめたまま、ぽつりと言った。
「SNSってさ」

「うん」
「自分のこと、知らない人にまで知られるの変な感じしない?」

「……する」
私は考えた。

「でも、みんなそういうもんじゃない?」
「そうだけど」

彼方が顔を上げる。
「みんながやってるからって平気なわけじゃないよね」

その言葉が、妙におかしく聞こえた。
「……そうだね」

遠くから陸上部の声が聞こえてきた。
「彼方ー!」

「お、来た」
彼方が振り返る。

「じゃあ、俺行くわ」
「うん」

「また明日」
「……また明日」

彼方が走っていく。
私はその背中を見ながら、さっきの言葉を思い出していた。

みんながやってるから。
みんなが楽しそうだから。
みんなが普通だと言うから。
それで、自分も同じだと思っていた。

でも本当にそうなのかな。

帰り道。

スマホが鳴った。
友達からだった。

『十愛、今日放課後どこいたの?』
私は画面を見つめる。

どう返そう。
『ちょっとグラウンド』

そこまで打って、指が止まった。
彼方といた。
それを言うだけなのに迷ってしまう。

結局。
『用事あった』とだけ送った。

すぐに返信が来る。
『ふーん』

その文字を見て胸がざわついた。
私はスマホを伏せた。

今日のことは……誰にも言いたくない。