迷える透明な子羊。

次の日。

「十愛、今日数学の小テストあるよ」
「……え?」
朝、教室に入るなり友達に言われて私は固まった。

「忘れてた?」
「完全に」
「やば。昨日言ったじゃん」

「聞いてない」
「いや、言ったって」
笑いながら席につく。

机の中から教科書を出して勉強を始めた。
「十愛、ここ分かる?」
「分かんない」

「即答じゃん」
「だって数学だよ?」
「意味わかんない」

そんなことを話していると、後ろの席から声が飛んできた。
「ねえ、今日の放課後カラオケ行かない?」
「行く行く!」

「私も!」
「彼氏は?」
「今日は部活だから無理~」
「じゃあ女子会じゃん!」

またいつもの話。
私は教科書を見ながら、聞こえてくる会話に適当に笑った。

やがてチャイムが鳴る。
「はい、席ついてー」
先生が入ってきて、教室が静かになった。

小テストが配られる。
一問目から分からない。
「……終わった」

小さく呟いて、私は問題用紙に頭を伏せた。

昼休み。
「十愛、パン買いに行こ」
「いいよ」
向かう廊下は人でいっぱいだった。

その途中、外が騒がしいことに気づいた。
「何?陸上?」
「たぶん」

みんなが窓のほうを見る。
私もつられてそちらに顔を向けた。

グラウンドでは、陸上部が練習していた。

「また見てる」
隣から言われて私は慌てて下を向いた。

「見てないし」
「いや、めっちゃ見てた」
「たまたま」

「ふーん」
ニヤニヤされる。

「もういいから……早く行こ」
私は友達の背中を押した。

放課後。
教室に忘れ物をしたことに気づいて、私は1人で階段を上っていた。

廊下に出ると、グラウンドから大きな笛の音が聞こえてきた。
立ち止まった。

窓の外を見る。
男子が走っていた。
何周目なんだろう。

どれだけ時間がたっても走り続けてる。
「……すご」
思わず声が出た。

その瞬間。
「何が?」
「うわっ!」

後ろから声がして、私は飛び上がった。
振り返る。
彼方だった。

「え、あ……」
「びっくりした?」
「した」
「ごめん」

彼方は笑った。
近くで見ると、思っていたより普通の男の子だった。
もっと話しかけにくい感じなのかと思っていた。

「何見てたの?」
「……陸上」

「俺?」
「いや、グラウンド」
「同じじゃん」
「そうだけど」

彼方が笑う。
私は何を言えばいいのか分からなくなった。

「陸上、好き?」
「ううん」
「じゃあ、なんで見てるの?」
「……なんとなく」

「そっか」

少しだけの沈黙。
気まずい。

「あのさ」
彼方が口を開く。

「……名前、十愛だったよね?」
「……え?」

「よく見るから」
「私のこと知ってたの?」
「うん」

心臓が音を立てた。
「じゃあ、また」

彼方はそう言って階段を下りていった。
私はしばらく動けなかった。

「……名前、知ってたんだ」
それだけで顔が熱くなる。

慌てて教室へ戻る。
忘れ物の教科書を鞄に突っ込んで急いで帰った。

家に着いて、制服のままベッドに倒れ込む。
スマホを見る。
通知がいくつか来ていた。

SNSを開く。
いつものように、友達の投稿が並んでいる。
その中に、見覚えのある名前があった。

彼方。
私は指を止めた。

プロフィールを開く。

陸上の大会の写真に友達と撮った写真。
あとは、何気ない日常の投稿。

思っていたより普通だった。
いや。
普通というより、超静かだった。

私が知っている彼方は、グラウンドを走っている姿だけ。
「……こんなの載せるんだ」

写真を1枚ずつ眺めていると、通知が入った。
友達からだった。

『今日カラオケ行ったー!』
写真が送られてくる。
『彼氏いない組で盛り上がったw』

私は笑って『楽しそうじゃん』と返した。

そのあと、もう一度彼方のプロフィールを開く。
さっきまで気にしたこともなかったのに。
今日は、なぜか気になった。

画面を閉じる。
そして、また開く。

「……何してんだろ」