俺を嫌いな君へ。

文化祭まで残り一週間余り。
海渡くんと揃って朝の教室に入る。
すっかり馴染んでしまった光景に、クラスメイトたちは一斉に手を上げた。

「おはよう、春山とみなっち」

「いつも仲良しだねぇ」

「カップルコンテストの練習は順調?」

当たり前だけど、俺と海渡くんを本当のカップルだなんて思うやつはいない。
口々に話しかけてくるみんなの間を潜り抜けて、俺は自分の席についた。
海渡くんはというと、途中で男子たちに捕まっていつもの笑顔を見せている。
男子からも女子からも同じくらい人気だ。
俺がその様子を眺めていると、同じように緑川さんも海渡くんを見つめていた。
頬を赤らめていて、あれが恋する女の子の顔なんだな、と改めて感心する。
好意は明らかなのに今の今まで気づかなかったなんて、自分の鈍感さ加減に呆れてつい笑ってしまった。

「優里くん、おっはよー!」

冬馬くんは一人一人に笑顔で「おはよ」と呼びかけてから、自分の机にリュックを下ろした。
「冬馬、今日も可愛いね〜」と言われて、「ありがとっ」なんて軽快に返してしまうところが、冬馬くんの魅力の一つだと思う。
俺がそんな人気者たちと友達になれたなんて、奇跡みたいなものだ。

「冬馬くん、おはよう」

「海渡のやつ、昨日ちゃんと荷物運びした?」

冬馬くんが横向きに座って、俺に顔を寄せてきた。
パーソナルスペースの狭さはいつかちゃんと指摘した方がいいのかもしれない。
友達のバロメーターを突破できたら、だけど。

「うん。やっぱり冬馬くんが海渡くんを寄越してくれたの?」

「え?違うけど?」

冬馬くんは意味が分からないというように首を傾げて、顎に人差し指を当てる。

「海渡が優里くん探してて、いんちょーが荷物運びさせてるって。そしたらあいつ、すっ飛んでったんだよ」

「そうだったの?」

冬馬くんに頼まれたわけじゃなかったんだ……。
本当にただ俺の歌が聴きたかっただけなのか?
いや、たぶんそれだけじゃないはずだ。
ちょっと前の俺じゃ考えられないけど、海渡くんの優しさはもう充分に知っている。
なんともいえない温かさが体中に広がる。
海渡くんに視線を向けると一瞬だけ目が合って、制止する男子たちを横目に、ズンズンと俺たちの方に近づいてきた。
でも、険しい顔じゃない。
最近はもう、貴重だと思っていた笑顔を向けてくれることの方が多くなっていた。
きっと、俺のことを友達だと思ってくれている。
それがすごく嬉しくて、それなのになぜか胸の奥が酸っぱくなった。
ごはんはよく噛んでゆっくり食べるようにしているし、すぐ横になって寝るのも控えているけど、なかなか治らない。
そのせいか、夜もなんだか寝つきが悪くて、俺は堪えきれずに大きなあくびをした。

「優里、口隠せ」

「へへ、優里くんってば可愛い」

「優里、顔、全部隠せ」

「ふん?」

「海渡、横暴すぎぃ。重いと嫌われる」

「うるさいぞ。いいから隠せ」

「ふぁ〜い」

自分でも呆れるくらい間抜けな返事をしながら、口に手を当ててさらに大きなあくびをする。
俺の目尻に浮かぶ涙は、海渡くんの親指で拭われた。
ピアノを弾く大事な指をそんなことに使わないでほしいと思いながらも、その手の温かさに思わず頬を擦り寄せる。

「春山、南、冬馬も……ちょっといいか?」

長澤の野太い声に海渡くんの手が離れて、俺は重たい瞼を持ち上げた。
衣替えの移行期間に入ってすぐに、長澤は半袖のワイシャツを着始めて、鍛えられた腕の筋肉を惜しげもなく披露している。
この筋肉バカにもだいぶ慣れてきて、前みたいにビクビクすることはなくなっていた。
でも、海渡くんの長澤を見る目は相変わらず険しい。
当人は気づいているのかいないのか、どこ吹く風という顔をしているけど。

「いんちょー、どしたん?」

冬馬くんが身を乗り出す。

「実は台本が完成したんだ。なるべく早く確認してもらいたいんだが……。昼休み、視聴覚室に集まれるか?」

「いいよ〜。二人も大丈夫だよね?」

「うん」

「分かった」

それぞれ返事をしたところでホームルームが始まる。
担任の声はやっぱり子守歌だけど、俺は両手で頬杖をついて天井を見上げた。
いよいよ台本かぁ。
なんだか本当に俳優にでもなったみたいだ。
楽しみなような怖いような。
たった十分間の恋人関係だけど、見ている人が満足してくれるようなステージにしたいな。

「優里、ちゃんと前見ろ」

海渡くんの声に慌てて姿勢を正すと、担任とばっちり目が合ってしまい、俺はニヘッと曖昧に笑うしかなかった。
左隣からぶぶっと吹き出す声が聞こえて、肩を揺らす海渡くんを横目で睨みつけた。

✳✳✳

「さっちゃんに呼ばれたからあとから行く。二人でごゆっくり〜」

冬馬くんはそう言うと、あっという間に教室から姿を消した。
丸橋さんが絡むと、やけに冬馬くんのフットワークが軽くなる気がする。

「ったく、しょうがねーなぁ、冬馬は。優里、行くぞ」

「うう〜ん」

数学で白くなりかけていた俺の頭を、海渡くんの低い声が素通りしていく。
海渡くんは小さくため息をついて頭をかくと、シャッターを下ろしかけている俺の腕を掴んで、いとも簡単に立たせた。
思わず目をぱちくりさせる。

「……あれ?海渡くん、なんか前と違う」

「なにが?」

「強くなってるような……。もしかして鍛えてるの?」

「ああ、優里のせいでな。優里がどこでも寝るから」

海渡くんがふっと笑う。
なんで俺のせいなんだよ。
ぜんっぜん意味が分からないんだけど。
そんな俺を、海渡くんは一階の視聴覚室まで引っ張っていき、冬馬くんみたいに軽々とドアを開けた。
海渡くんと冬馬くんが長澤みたいにムキムキになったらどうしよう。
ワイシャツがパッツンパッツンになったら……ちょっと面白いかもしれない。
その長澤はいつもだったら先に待っているのに、今日は珍しくいないようだ。

「そのうち来るだろ。ここで待ってようぜ」

「うん」

海渡くんが椅子に座って、俺もその隣に腰掛けた。
腕がぴったりくっつく。

「最近ますます眠そうだな。眠れてないのか?文化祭、緊張してる?」

「まだ緊張はしてない。けど、胃か胸か分かんないけど、時々痛くなることがあって」

「それ、大丈夫か?病院とか」

「ん……今は大丈夫。海渡くん、に触ってると、治るみたい……」

だんだんと俺の口が回らなくなる。
海渡くんの体温とホッとするにおいは、担任の話し声より強い入眠作用があるらしい。
目を開けていられなくなった俺は、それでも眠気に抗おうと全身に力を入れた。
ここで机につっぷしたら確実に寝る。
また海渡くんを困らせる。

「優里……」

どれくらい経ったのか。
海渡くんの囁くような呼びかけに、少しだけ意識が浮上して、俺は薄く目を開けた。
いつの間にか海渡くんの肩によりかかってしまっていて、離れなきゃと思うのに、体が鉛のように重い。
……不思議だな。
なんだか懐かしくて、ずっとこうしていたいと思うのはなんでだろう。
再び目を閉じると、瞼の裏がオレンジ色に染まる。
文化祭……のど自慢コンテスト……海渡くんと冬馬くんに励まされた舞台袖……長澤から逃げた視聴覚室……夕日……誰かの肩と、優しくなでられる感触……におい……。

「眠かったら寝てていいよ」

俺の頭を支える海渡くんの手が、そっと耳に触れた。
鍵盤の上を踊るように滑る長い指が、今は俺の髪をなでている。

そういえば、目が覚めたときにはもう後夜祭の終わりの方で、校庭のキャンプファイヤーが最後の火花を散らしていたっけ。
視聴覚室には薄明かりがついていて、誰がつけておいてくれたんだろうって思ったんだ。
あの明かりがなかったら、俺はドアに向かうまでに、机やら椅子やらに何度も足をぶつけていたと思う。
それから、今みたいに体の左側だけが温かくて、妙な安心感を覚えたことも。

『視聴覚室で眠りこけて後夜祭すっぽかさないでよね』

いつかの夕暮れの、三人並んだ帰り道。
冬馬くんの弾むような声と、俺の視界を塞いだ海渡くんの手。
もしかして、去年の文化祭で、眠る俺に肩を貸してくれたのって――

「……海渡、くん……」

「うん。……おやすみ、優里」

遠ざかる意識の中で、俺はあの日の記憶を確かに思い出していた。