好きなものを選ぶには、思っていたより少しだけ勇気がいる。
*
瑠夏と公園で出会ってから三日が過ぎても、沙波の生活に、誰かが気づくほどの変化は起きなかった。
朝になれば母と食卓を囲み、気が向けば夏休みの課題を進め、午後には冷房の効いた居間で本を読む。クラスのグループチャットには相変わらず通知が溜まり続け、海へ行く計画も、沙波が参加しないと伝えたあとで滞ることなく進んでいた。
新しく買った水着の写真や当日の天気を心配するメッセージを眺めれば、楽しそうだとは思う。それでも、自分もそこにいなければならなかったのではないかと以前のように考え込むことはなかった。
進路希望調査の紙は、机の端へ置いたままになっていた。
第一志望も、興味のある学部も、将来希望する職業も空欄のままで、昨夜には母からオープンキャンパスの候補をいくつか見せられている。自宅から通いやすい大学と、電車を乗り継いで一時間ほど掛かる大学、その中から気になるところを見てみたら、と言われたので、沙波は「あとで調べてみる」と答えた。
言った以上は一応ホームページも開いてみた。
文学、経済、教育、国際、社会。学部紹介には立派な言葉が並び、学生生活の頁では大学生たちが講義室や芝生で笑っている。どれも楽しそうなのに、その中へ自分を置こうとすると、何をしている姿を思い描けばよいのか分からなかった。
だからといって大学へ行きたくないわけでもないのだから、自分でも少し面倒だった。
瑠夏なら、こんな時にも「まだ分からないんだね」と言うのだろうか。
そう考えてから、沙波はスマートフォンを伏せた。
連絡先すら知らない相手なのに、三日前に少し話しただけの人のことを何度も思い出す。公園の芝生へ寝転がって空を眺め、小説を書くことを気負わず口にし、大学へ行くべきかと尋ねても、自分には分からないと答えた人だった。
沙波は大学のホームページを閉じた。答えはまだ見つからなかったが、そのことを三日前より静かな気持ちで眺められるようにはなっていた。
三日目の午後、沙波は市立図書館へ行くことにした。
瑠夏に会いに行くのだと考えると少し違う気がしたが、彼が図書館によく行くと話していたことは覚えており、会えたらいいなという気持ちも否定するほどではなかった。
公園で空を眺めた帰り道、自分で本を一冊選んでみたいと思った。三日経ってもその気持ちが残っていたので、今日はそれを確かめてみることにした。
図書館へ向かう道には、昼の熱が濃く残っていた。
沙波は建物の影を拾うように歩きながら、ときどき空へ目を向ける。三日前に見たほど大きな入道雲はなく、薄い雲がところどころに浮かんでいるだけだったが、以前よりも自然に顔が上を向くようになっていた。
空はずっと同じ場所にあったはずなのに、幼い頃には雲の形を母へ教え、夕焼けが綺麗なら立ち止まり、雨上がりには虹を探していたことを思い出す。いつから天気予報の代わりにしか見なくなったのだろうと考えているうち、図書館のある通りへ出た。
少し手前にあるコンビニを見つけると、喉が渇いていたことを思い出し、沙波は自動扉の中へ入った。
冷房の風が火照った肌へ触れ、思わず息をつく。飲料棚へ向かい、いつもの麦茶へ手を伸ばしかけたところで、黄色いラベルのレモンスカッシュが目に留まった。透明なボトルには淡い黄色の炭酸が満ち、冷えた表面へ細かな水滴が浮かんでいる。
おいしそうだと思ったのに、沙波の指は途中で止まった。甘い飲み物では余計に喉が渇くかもしれず、炭酸なら一気には飲めない。そんな理由を並べるほど、最初に浮かんだ「飲みたい」という感覚だけが後ろへ押されていく。
「それにするの?」
背後から聞き覚えのある声がして、沙波は驚いて振り返った。
黒いリュックを片方の肩へ掛けた瑠夏が、少し離れたところに立っている。
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瑠夏と公園で出会ってから三日が過ぎても、沙波の生活に、誰かが気づくほどの変化は起きなかった。
朝になれば母と食卓を囲み、気が向けば夏休みの課題を進め、午後には冷房の効いた居間で本を読む。クラスのグループチャットには相変わらず通知が溜まり続け、海へ行く計画も、沙波が参加しないと伝えたあとで滞ることなく進んでいた。
新しく買った水着の写真や当日の天気を心配するメッセージを眺めれば、楽しそうだとは思う。それでも、自分もそこにいなければならなかったのではないかと以前のように考え込むことはなかった。
進路希望調査の紙は、机の端へ置いたままになっていた。
第一志望も、興味のある学部も、将来希望する職業も空欄のままで、昨夜には母からオープンキャンパスの候補をいくつか見せられている。自宅から通いやすい大学と、電車を乗り継いで一時間ほど掛かる大学、その中から気になるところを見てみたら、と言われたので、沙波は「あとで調べてみる」と答えた。
言った以上は一応ホームページも開いてみた。
文学、経済、教育、国際、社会。学部紹介には立派な言葉が並び、学生生活の頁では大学生たちが講義室や芝生で笑っている。どれも楽しそうなのに、その中へ自分を置こうとすると、何をしている姿を思い描けばよいのか分からなかった。
だからといって大学へ行きたくないわけでもないのだから、自分でも少し面倒だった。
瑠夏なら、こんな時にも「まだ分からないんだね」と言うのだろうか。
そう考えてから、沙波はスマートフォンを伏せた。
連絡先すら知らない相手なのに、三日前に少し話しただけの人のことを何度も思い出す。公園の芝生へ寝転がって空を眺め、小説を書くことを気負わず口にし、大学へ行くべきかと尋ねても、自分には分からないと答えた人だった。
沙波は大学のホームページを閉じた。答えはまだ見つからなかったが、そのことを三日前より静かな気持ちで眺められるようにはなっていた。
三日目の午後、沙波は市立図書館へ行くことにした。
瑠夏に会いに行くのだと考えると少し違う気がしたが、彼が図書館によく行くと話していたことは覚えており、会えたらいいなという気持ちも否定するほどではなかった。
公園で空を眺めた帰り道、自分で本を一冊選んでみたいと思った。三日経ってもその気持ちが残っていたので、今日はそれを確かめてみることにした。
図書館へ向かう道には、昼の熱が濃く残っていた。
沙波は建物の影を拾うように歩きながら、ときどき空へ目を向ける。三日前に見たほど大きな入道雲はなく、薄い雲がところどころに浮かんでいるだけだったが、以前よりも自然に顔が上を向くようになっていた。
空はずっと同じ場所にあったはずなのに、幼い頃には雲の形を母へ教え、夕焼けが綺麗なら立ち止まり、雨上がりには虹を探していたことを思い出す。いつから天気予報の代わりにしか見なくなったのだろうと考えているうち、図書館のある通りへ出た。
少し手前にあるコンビニを見つけると、喉が渇いていたことを思い出し、沙波は自動扉の中へ入った。
冷房の風が火照った肌へ触れ、思わず息をつく。飲料棚へ向かい、いつもの麦茶へ手を伸ばしかけたところで、黄色いラベルのレモンスカッシュが目に留まった。透明なボトルには淡い黄色の炭酸が満ち、冷えた表面へ細かな水滴が浮かんでいる。
おいしそうだと思ったのに、沙波の指は途中で止まった。甘い飲み物では余計に喉が渇くかもしれず、炭酸なら一気には飲めない。そんな理由を並べるほど、最初に浮かんだ「飲みたい」という感覚だけが後ろへ押されていく。
「それにするの?」
背後から聞き覚えのある声がして、沙波は驚いて振り返った。
黒いリュックを片方の肩へ掛けた瑠夏が、少し離れたところに立っている。


