夏にほどける

「僕が答えたら、また誰かの正解になるじゃん」

 蝉の声が頭上から降ってくる。
 沙波は返事をせず、手の中の麦茶へ目を落とした。表面についた水滴が、指の間へ流れ込む。

「……それ、ずるくないですか」
「何が?」
「分からないって言えば、答えなくて済むでしょう」
「そうかも」
「否定しないんですね」
「本当に分からないから」

 瑠夏は笑っている。

「僕だって、進路のことを誰かに聞かれたら、自分の経験しか話せないよ。大学は楽しい時もあるし、行ってよかったとも思ってる。でも、だから沙波も行った方がいい、とは言えない」
「じゃあ、自分で決めるしかない?」
「たぶん。でも、今すぐ決めなくてもいいんじゃない」
「進路希望は出さないといけません」
「それは大変だ」

 他人事のような言い方に、沙波は思わず睨む。

「少しくらい真面目に考えてくださいよ」
「ごめん。でも、その紙を僕が書くわけにもいかないでしょう」
「それはそうですけど」
「分からなかったら、大学を見に行ってみるとか、大学以外に何があるのか調べるとか、それくらいならできるんじゃない?」

 瑠夏はそこで言葉を切り、自分がさっきまで寝転んでいた芝生へ目を向けた。

「僕も、空を見たら何を思うのか分からなかったから、今日は見てみただけだし」

 人生について何かを諭そうとする声音ではなく、瑠夏は今朝自分がしていたことを、そのまま差し出すように話していた。

「……空と進路、一緒にします?」
「規模は全然違うね」
「ですよね」
「だから全部同じようにはいかないと思う」

 そう言って肩を竦めた瑠夏の目元へ木漏れ日が落ち、その横顔をもう少し見ていたいと思った自分に気づいて、沙波は慌てて空へ視線を戻した。
 
 公園を出る頃には、午前中に見上げた入道雲が随分形を変えていた。
 沙波が犬に見えると言った場所は崩れ、瑠夏がワニだと指した輪郭にも、もうそれらしい面影は残っていない。

「じゃあ、僕はこっちだから」

 公園の入口で瑠夏が片手を上げた。

「今日は、心配して声掛けてくれてありがとう」
「倒れてると思っただけです」
「それでも、声掛けてくれたのは沙波でしょう。あのままだったら、僕、もう三十分くらい寝てたかもしれないし」
「それは本当に倒れるので、声掛けて正解でしたね」
「じゃあ今日、正解一個見つかった」
「そういう正解はいらないです」

 二人で笑ったあと、瑠夏が住宅街へ続く道へ身体を向ける。
 このまま別れれば、次に会えるのか分からない。そう思った瞬間、沙波の口は頭で考えるより先に動いた。

「あの、瑠夏さん」
「うん?」
「また、この辺に来ますか」

 瑠夏が少し意外そうに目を瞬いた。
 自分から尋ねておきながら急に恥ずかしくなり、沙波は何か理由を足そうとしたが、その前に瑠夏が答えた。

「図書館にはよく行くと思う。家だと小説、あんまり進まないから」
「そうなんですね」
「公園にも来るかもしれない。空が必要になったら」
「また寝転ぶんですか?」
「たぶん」
「今度は帽子くらい持ってきた方がいいですよ」
「沙波も今日かぶってないでしょう」
「……忘れたんです」
「じゃあ、お互い次から気をつけようか」

 言われてしまえば返す言葉もなく、沙波は笑った。
 瑠夏は今度こそ「またね」と片手を上げ、住宅街の方へ歩いていった。
 沙波も反対方向へ足を向ける。

 数歩進んだところで振り返ると、瑠夏はもうこちらを見ていなかった。白いシャツの背中が夏の日差しの中を遠ざかっていくのを、沙波は少しだけ眺めてから歩き出した。