夏にほどける

 九月一日、二学期が始まった。
 久しぶりに入った教室には、夏休みの名残があちらこちらに残っていた。
 日焼けした友人もいれば、髪を短くした子もいる。旅行先の土産や宿題が終わらなかった愚痴まで、休み中の出来事を一日ですべて話してしまおうとするような声が、朝の教室を満たしていた。

「沙波、おはよ。昨日グループ見た?」

 席へ着くなり友人に尋ねられ、沙波は鞄を机の横へ掛けながら頷いた。

「見たよ。でも本読んでたから、あんまり返してなかった」
「何の本?」

 一瞬だけ迷った。自分にとって大切なものを誰かに話す時には、今でも少し身構える。
 けれど、話したくないのなら黙っていていいし、話したいと思ったなら話せばいい。どちらを選ぶのかを決めるのは、自分だった。

「知り合いが書いた小説。新人賞に出すんだって」
「え、小説書く人いるんだ。すご」
「うん」
「面白かった?」
「すごく好きだったよ」

 「すごく好きだったよ」と口にしてみても、思っていたほど身構える必要はなかった。友人は「へえ、読んでみたい」と言い、すぐ別の話題へ移った。

 ホームルームでは、担任が二学期以降の進路について説明した。秋の模試、三者面談、来年に向けた科目選択と予定が読み上げられ、周囲では志望校について小声で話している生徒もいる。

 沙波の第一志望はまだ決まっていない。大学へ行く可能性は高いと思っているものの、どこで何を学びたいのかはもう少し考えたいし、ほかの道について調べることもやめるつもりはなかった。


 放課後になると、友人たちから駅前へ寄っていこうと誘われた。

「沙波も来る?」

 以前なら何も考えずに頷いただろうが、今日は一度だけ自分に訊いてみると、久しぶりに皆と話したいという気持ちは、考えるまでもなくちゃんとそこにあった。

「行く」
「じゃあ四人ね。何食べる?」
「今日は甘いもの食べたいかも」
「珍しい。沙波が希望言った」
「私だって言う時あるよ」

 笑いながら教室を出る。断れるようになったからといって、行きたい誘いまで断る必要はない。今日は皆と甘いものを食べたいと思ったから、そのまま駅前へ向かった。


 帰宅したあと、沙波は机の上に『夏にほどける』を置いた。
 学校にまで持っていったのは、置いていくのが惜しかったからという、それだけの理由だ。

 昨日も何度も表紙を開き、「十七歳の沙波へ」と書かれた頁を読み返した。
 けれど今になって、本文を読み終えたところから後ろをほとんど見ていないことへ気づいた。
 最後の一文を読んだあと、涙が止まらなくなり、そのまま表紙へ戻ってしまったのだ。

 何となく気になって本を後ろから開くと、本文のあとには数枚の白紙が続いていた。
 最後の一枚をめくると、小さな文字で奥付が置かれていた。題名と著者名、必要な最低限の記載だけがあり、発行年月日の欄には何も入っていない。

 新人賞に応募するために書いた作品なのだから、発行日がないこと自体は不思議ではない。沙波がそのまま本を閉じようとした時、奥付の下部に、印刷とは違う黒いインクの文字があることに気づいた。見慣れた瑠夏の筆跡だった。



  20XX年8月31日
  僕の好きな人へ。
           』

 この本を渡されたのは八月三十一日だった。その時に見つけていたなら意味の分からなかった日付が、今日になって初めて、自分へ宛てられた言葉として届く。

 沙波は指先で文字をなぞり、誰もいない部屋で微笑った。

 最初の頁には「十七歳の沙波へ」、最後には「僕の好きな人へ」。同じ一冊の中で、どちらも自分を呼ぶ言葉になっていることが、どうしようもなく嬉しかった。

 その時、机の上のスマートフォンが震えた。画面に表示された瑠夏の名前を開くと、文章より先に一枚の写真が届いている。

 青い空だった。新幹線の窓から撮ったのだろうか、下の方には遠く流れる町並みが入り、白い雲が高い空へ長く伸びている。
 少し遅れて、短いメッセージが届いた。

《今日の空、きれいだよ》

 沙波は窓へ目を向け、カーテンを開けた。瑠夏の写真とは違い、こちらの空にはもう少し雲があり、青も幾分薄い。同じ日の同じ時刻でも、いる場所が違えば見えるものは違っていた。

 窓を開けてスマートフォンを空へ向け、今いる町の空を一枚だけ撮ると、そのまま瑠夏とのメッセージ画面へ添付した。

《こっちも、きれいです》

 ほどなく、《ほんとだ。きれいだね》と返ってきた。沙波は画面を見ながら笑い、スマートフォンを胸元に下ろした。

 窓の外には、もう九月の空が広がっている。瑠夏が見ている空とは違っていたけれど、沙波には今日の空も、きれいに見えた。