好きなのだ。自分の話を聞き、けれど答えを押しつけず、変わっていると言われても小説を書くことをやめない、この人が。
好きなものを一つずつノートに書き始めた頃には、そんなふうに誰かの名前を書き込む日が来るとは思っていなかった。
瑠夏のスマートフォンが震えた。画面を確認した彼の表情で、何の連絡か分かった。
「父さん、あと十五分くらいで来るって」
沙波は膝の上で両手を組んだ。
十五分。時間として示されると、急に短い。
「そっか。じゃあ、もうすぐですね」
「うん。このあと駅まで送ってもらう」
「二時の新幹線?」
「そう」
「夕方には東京?」
「たぶん四時前には着くかな。家に戻ったら、まず掃除しないと」
「冷蔵庫もでしょう」
普段通りの話をしていることが嬉しいのに、同じくらい苦しかった。
瑠夏はボストンバッグを持ち上げ、公園の入口へ向かおうとする。
「小説、読んでくれてありがとう。応募したらまた連絡する」
「うん」
「沙波も、二学期始まるでしょう。進路のこと、あんまり一人で考え込みすぎないでね」
「分かってます」
「じゃあ、また――」
「瑠夏さん」
瑠夏が振り返る。
沙波は何を言おうとしていたのか、一瞬分からなくなった。
昨夜は、もっと順序立てて話すつもりだった。
小説の感想を伝えて、そのあとに、自分の気持ちも言おうと決めていた。
けれど、いざ瑠夏が去ろうとする姿を目の前にすると、用意してきた言葉はどれも遠く、代わりに、きれいでも大人びてもいない一言だけが口をついた。
「行かないで」
自分の声を聞いた途端、涙が溢れた。
瑠夏は驚いたように目を見開いている。
「……ごめんなさい。違うんです、東京に戻らないでって言いたいんじゃなくて。大学もあるし、向こうの友達もいるし、瑠夏さんが東京で暮らすのが好きなのも分かってるから、残ってほしいわけじゃないんです」
涙を拭う余裕もなく、沙波は言葉を続けた。
「でも、嫌なの。明日から今までみたいに会えないのが嫌で、図書館に行っても瑠夏さんがいないのも、公園に来たって会えないのも、すごく寂しくて……それなのに、昨日も今日もちゃんと見送った方がいいと思って、言わない方がいいことにしようとしてました」
「沙波」
「私、瑠夏さんが好きです」
ようやく言えた。
涙で視界がぼやけていても、「好きです」と口にした声だけは、自分のものだと分かった。
「だから行かないでって思う。でも、行ってほしくないわけじゃない。自分でも矛盾してると思うけど、どっちも本当なんです」
言い終える頃には、自分でも可笑しくなり、沙波は涙の向こうで少しだけ笑った。
瑠夏は何も言わないまま、持ち上げたボストンバッグをもう一度地面へ置いた。
それから沙波の前まで戻る。
「僕も、沙波が好きだよ」
沙波はすぐに返事ができなかった。
「……え?」
「沙波が好きだから、完成したら最初に読んでほしかった。あの本を一冊だけ作ったのも、表紙を空にしたのも、その人に渡すものとして選んだから」
「でも、小説は……」
「小説は僕のものだよ。僕が書きたくて書いたし、新人賞にも出したい。でも、沙波に読んでほしいと思った気持ちは、僕の小説とは別にある」
瑠夏は少し照れたように笑った。
「言うの、遅くなったけど」
「遅いです。今の今まで帰ろうとしてたじゃないですか」
「今日言うつもりだったんだよ。沙波が先に泣き始めたから順番が変わっただけ」
「私のせいにしないでください」
「ごめん。でも、本当」
泣いているのに笑ってしまった。
好きだと言われた直後なのに、「では付き合うのが普通なのだろうか」と考えた自分がおかしくなり、沙波は泣いたまま笑った。
「どうしたの?」
「告白して、両想いだったら、普通は付き合うのかなって思って」
「普通は?」
「また言っちゃいました」
「言葉そのものが悪いわけじゃないでしょう」
「そうでした」
二人は顔を見合わせた。
「瑠夏さんは、どうしたいですか」
沙波が尋ねると、彼は少しだけ考えた。
「僕は、東京に戻る」
「うん」
「大学も行きたいし、向こうの生活も好きだし、小説も書きたい。でも、沙波とはまた会いたい」
瑠夏はまっすぐ沙波を見る。
「だから、会いにきて」
風が木々を揺らし、蝉の声が少し遠くなったように感じられた。
「僕も沙波に会いにいくから」
東京は気軽に会いに行ける距離ではない。それでも、「離れる」と「終わる」を同じ言葉にしなくていいのだと思うと、胸の奥にあった寂しさの形が少し変わった。
「……会いに行きます」
「うん」
「瑠夏さんも、本当に来てくださいね」
「行くよ。冬まで待たなくても、予定が合えば帰ってくる」
「東京に行ったら、瑠夏さんの大学も見たいです」
「案内する」
「よく行く本屋も」
「そこも」
「小説を書いてる場所も」
「それは僕の部屋だから、もう少し時間が経ってからにしようか」
一瞬遅れて意味を理解し、沙波の頬が熱くなる。
「そういう言い方、ずるいです」
「ははっ、ごめん」
笑っているうちに、瑠夏のスマートフォンがもう一度震えた。
今度こそ迎えが来たのだろうと分かり、二人は公園の入口まで歩いた。
道の向こうへ一台の車が停まり、瑠夏が「あれ」と小さく示す。
「じゃあ、行ってくるね」
さよならではなく、そう言われたことが嬉しかった。
「行ってらっしゃい」
沙波が返すと、瑠夏は一瞬目を細め、それから柔らかく笑った。
「行ってきます」
ボストンバッグを持ち、車へ向かって歩き出す。
途中で振り返った瑠夏に、沙波は笑顔で手を振った。
今度は呼び止めなかった。寂しさは残っていたが、呼び止めたいとは思わなかった。今度は「またね」の続きを、自分たちで作ればいい。
好きなものを一つずつノートに書き始めた頃には、そんなふうに誰かの名前を書き込む日が来るとは思っていなかった。
瑠夏のスマートフォンが震えた。画面を確認した彼の表情で、何の連絡か分かった。
「父さん、あと十五分くらいで来るって」
沙波は膝の上で両手を組んだ。
十五分。時間として示されると、急に短い。
「そっか。じゃあ、もうすぐですね」
「うん。このあと駅まで送ってもらう」
「二時の新幹線?」
「そう」
「夕方には東京?」
「たぶん四時前には着くかな。家に戻ったら、まず掃除しないと」
「冷蔵庫もでしょう」
普段通りの話をしていることが嬉しいのに、同じくらい苦しかった。
瑠夏はボストンバッグを持ち上げ、公園の入口へ向かおうとする。
「小説、読んでくれてありがとう。応募したらまた連絡する」
「うん」
「沙波も、二学期始まるでしょう。進路のこと、あんまり一人で考え込みすぎないでね」
「分かってます」
「じゃあ、また――」
「瑠夏さん」
瑠夏が振り返る。
沙波は何を言おうとしていたのか、一瞬分からなくなった。
昨夜は、もっと順序立てて話すつもりだった。
小説の感想を伝えて、そのあとに、自分の気持ちも言おうと決めていた。
けれど、いざ瑠夏が去ろうとする姿を目の前にすると、用意してきた言葉はどれも遠く、代わりに、きれいでも大人びてもいない一言だけが口をついた。
「行かないで」
自分の声を聞いた途端、涙が溢れた。
瑠夏は驚いたように目を見開いている。
「……ごめんなさい。違うんです、東京に戻らないでって言いたいんじゃなくて。大学もあるし、向こうの友達もいるし、瑠夏さんが東京で暮らすのが好きなのも分かってるから、残ってほしいわけじゃないんです」
涙を拭う余裕もなく、沙波は言葉を続けた。
「でも、嫌なの。明日から今までみたいに会えないのが嫌で、図書館に行っても瑠夏さんがいないのも、公園に来たって会えないのも、すごく寂しくて……それなのに、昨日も今日もちゃんと見送った方がいいと思って、言わない方がいいことにしようとしてました」
「沙波」
「私、瑠夏さんが好きです」
ようやく言えた。
涙で視界がぼやけていても、「好きです」と口にした声だけは、自分のものだと分かった。
「だから行かないでって思う。でも、行ってほしくないわけじゃない。自分でも矛盾してると思うけど、どっちも本当なんです」
言い終える頃には、自分でも可笑しくなり、沙波は涙の向こうで少しだけ笑った。
瑠夏は何も言わないまま、持ち上げたボストンバッグをもう一度地面へ置いた。
それから沙波の前まで戻る。
「僕も、沙波が好きだよ」
沙波はすぐに返事ができなかった。
「……え?」
「沙波が好きだから、完成したら最初に読んでほしかった。あの本を一冊だけ作ったのも、表紙を空にしたのも、その人に渡すものとして選んだから」
「でも、小説は……」
「小説は僕のものだよ。僕が書きたくて書いたし、新人賞にも出したい。でも、沙波に読んでほしいと思った気持ちは、僕の小説とは別にある」
瑠夏は少し照れたように笑った。
「言うの、遅くなったけど」
「遅いです。今の今まで帰ろうとしてたじゃないですか」
「今日言うつもりだったんだよ。沙波が先に泣き始めたから順番が変わっただけ」
「私のせいにしないでください」
「ごめん。でも、本当」
泣いているのに笑ってしまった。
好きだと言われた直後なのに、「では付き合うのが普通なのだろうか」と考えた自分がおかしくなり、沙波は泣いたまま笑った。
「どうしたの?」
「告白して、両想いだったら、普通は付き合うのかなって思って」
「普通は?」
「また言っちゃいました」
「言葉そのものが悪いわけじゃないでしょう」
「そうでした」
二人は顔を見合わせた。
「瑠夏さんは、どうしたいですか」
沙波が尋ねると、彼は少しだけ考えた。
「僕は、東京に戻る」
「うん」
「大学も行きたいし、向こうの生活も好きだし、小説も書きたい。でも、沙波とはまた会いたい」
瑠夏はまっすぐ沙波を見る。
「だから、会いにきて」
風が木々を揺らし、蝉の声が少し遠くなったように感じられた。
「僕も沙波に会いにいくから」
東京は気軽に会いに行ける距離ではない。それでも、「離れる」と「終わる」を同じ言葉にしなくていいのだと思うと、胸の奥にあった寂しさの形が少し変わった。
「……会いに行きます」
「うん」
「瑠夏さんも、本当に来てくださいね」
「行くよ。冬まで待たなくても、予定が合えば帰ってくる」
「東京に行ったら、瑠夏さんの大学も見たいです」
「案内する」
「よく行く本屋も」
「そこも」
「小説を書いてる場所も」
「それは僕の部屋だから、もう少し時間が経ってからにしようか」
一瞬遅れて意味を理解し、沙波の頬が熱くなる。
「そういう言い方、ずるいです」
「ははっ、ごめん」
笑っているうちに、瑠夏のスマートフォンがもう一度震えた。
今度こそ迎えが来たのだろうと分かり、二人は公園の入口まで歩いた。
道の向こうへ一台の車が停まり、瑠夏が「あれ」と小さく示す。
「じゃあ、行ってくるね」
さよならではなく、そう言われたことが嬉しかった。
「行ってらっしゃい」
沙波が返すと、瑠夏は一瞬目を細め、それから柔らかく笑った。
「行ってきます」
ボストンバッグを持ち、車へ向かって歩き出す。
途中で振り返った瑠夏に、沙波は笑顔で手を振った。
今度は呼び止めなかった。寂しさは残っていたが、呼び止めたいとは思わなかった。今度は「またね」の続きを、自分たちで作ればいい。


