「好きでした。すごく」
瑠夏の表情が一瞬だけ動き、沙波は遅れて自分の言い方に気づいた。
「……小説が、です」
「分かってるよ」
「今、一瞬違うこと考えませんでした?」
「考えてないって言ったら……たぶん嘘になる」
さらりと認められ、今度は沙波の方が困った。
瑠夏は少し笑いながらも、すぐに真面目な表情へ戻る。
「続き、聞かせて」
「うん。最初は、私のことを書いたのかなと思いました。空を見たり、飲み物を選んだり、友達の誘いを断ったりするところがあったから。でも、読めば読むほど、私の話じゃないんだって分かって」
「嫌じゃなかった?」
「逆です。それがよかった」
沙波は言葉を選びながら続ける。
「登場人物の名前も、家族も、起きる出来事も違うのに、私がこの夏に考えたことが、どこかにずっと流れていました。だから、私が話したことをそのまま使われたっていう感じじゃなくて……瑠夏さんが、私の話をどう聞いてたのか教えてもらったみたいだった」
瑠夏は黙って聞いていた。
「お母さんのことを悪い人にしなかったのも嬉しかったです。私が苦しかったって言ったからって、親から逃げれば自由になれる、みたいな話にしなかったでしょう」
「うん」
「私、お母さんに腹が立ったけど、お母さんが嫌いなわけじゃなかったから。そこを分かって書いてくれたのが、すごく嬉しかった」
読みながら泣いたことを思い出すと、また目元が熱を持ちそうになる。
沙波は空を見上げ、少しだけ呼吸を整えた。
「それから、最後まで主人公の進路を決めなかったでしょう。あれも好きでした」
「そこは、書いていて一番迷った」
「本当ですか?」
「新人賞に出すなら、もう少し分かりやすく成長させた方がいいのかなとは思ったよ。将来の夢を見つけるとか、第一志望を決めるとか、自分なりの結論を言わせるとか」
「どうしてやめたんですか」
瑠夏はすぐには答えず、木々の隙間から見える空へ視線を移した。
「僕が答えたら、また誰かの正解になるじゃん」
一冊を読み終えたあとで聞くと、最初に公園で聞いた時よりも、その一言は深く残った。瑠夏は大学へ行かないことも、一人でいることも、「正しい側」には置かなかった。
「僕も、途中まではもっと答えを書こうとしてたんだ」
「そうなの?」
「帰省した時には、別の話を半分くらい書いてた。主人公が大きな出来事を経験して、自分のやりたいことを見つける話」
「今と全然違いますね」
「沙波に会ってから、その話が書けなくなった」
「私のせい?」
「たぶん、沙波のおかげ」
瑠夏は笑った。
「僕、小説には大きな出来事が必要だと思ってたんだ。人生が変わるくらいのことが起きて、人が成長して、それを読者に見せる。でも、沙波がレモンスカッシュ一本選んだだけで嬉しそうにしてるのを見たら、そういう小さいことをちゃんと書いてみたくなった」
「嬉しそうでした?」
「かなり」
「恥ずかしいな……」
「僕には、すごく大事に見えたよ」
思いがけないほど静かな声だった。
「沙波にとっては飲み物を選んだだけかもしれないけど、何でもいいって言ってた人が、自分でこれがいいって決めたんでしょう。だったら僕は、そういうことを書きたいと思った」
小さいことを大事に書ける人になりたい、と以前瑠夏は言っていた。あれは創作論というより、彼が人を見る時の癖なのかもしれない。
「それで、沙波に最初に読んでほしくなった」
「途中から?」
「うん。新人賞に出したい気持ちは最初から変わってないし、自分のために書いたのも本当。でも、書いてるうちに、最初の読者は沙波がいいなって思った」
「表紙も?」
「表紙は最初から最後まで沙波のため」
迷いのない返答だった。
「紙も、空の色も、文字の位置も?」
「うん。沙波、本の装丁を見るの好きでしょう」
「よく覚えてますね」
「小説を書く人だから」
「それ、何でも覚えてる理由に使えません?」
「実際、覚えておきたいことは結構覚えてるよ」
瑠夏はそう言って笑った。その横顔を見ながら、沙波は昨夜から胸の内に置いていた言葉を、もう誤魔化せないのだと感じた。
瑠夏の表情が一瞬だけ動き、沙波は遅れて自分の言い方に気づいた。
「……小説が、です」
「分かってるよ」
「今、一瞬違うこと考えませんでした?」
「考えてないって言ったら……たぶん嘘になる」
さらりと認められ、今度は沙波の方が困った。
瑠夏は少し笑いながらも、すぐに真面目な表情へ戻る。
「続き、聞かせて」
「うん。最初は、私のことを書いたのかなと思いました。空を見たり、飲み物を選んだり、友達の誘いを断ったりするところがあったから。でも、読めば読むほど、私の話じゃないんだって分かって」
「嫌じゃなかった?」
「逆です。それがよかった」
沙波は言葉を選びながら続ける。
「登場人物の名前も、家族も、起きる出来事も違うのに、私がこの夏に考えたことが、どこかにずっと流れていました。だから、私が話したことをそのまま使われたっていう感じじゃなくて……瑠夏さんが、私の話をどう聞いてたのか教えてもらったみたいだった」
瑠夏は黙って聞いていた。
「お母さんのことを悪い人にしなかったのも嬉しかったです。私が苦しかったって言ったからって、親から逃げれば自由になれる、みたいな話にしなかったでしょう」
「うん」
「私、お母さんに腹が立ったけど、お母さんが嫌いなわけじゃなかったから。そこを分かって書いてくれたのが、すごく嬉しかった」
読みながら泣いたことを思い出すと、また目元が熱を持ちそうになる。
沙波は空を見上げ、少しだけ呼吸を整えた。
「それから、最後まで主人公の進路を決めなかったでしょう。あれも好きでした」
「そこは、書いていて一番迷った」
「本当ですか?」
「新人賞に出すなら、もう少し分かりやすく成長させた方がいいのかなとは思ったよ。将来の夢を見つけるとか、第一志望を決めるとか、自分なりの結論を言わせるとか」
「どうしてやめたんですか」
瑠夏はすぐには答えず、木々の隙間から見える空へ視線を移した。
「僕が答えたら、また誰かの正解になるじゃん」
一冊を読み終えたあとで聞くと、最初に公園で聞いた時よりも、その一言は深く残った。瑠夏は大学へ行かないことも、一人でいることも、「正しい側」には置かなかった。
「僕も、途中まではもっと答えを書こうとしてたんだ」
「そうなの?」
「帰省した時には、別の話を半分くらい書いてた。主人公が大きな出来事を経験して、自分のやりたいことを見つける話」
「今と全然違いますね」
「沙波に会ってから、その話が書けなくなった」
「私のせい?」
「たぶん、沙波のおかげ」
瑠夏は笑った。
「僕、小説には大きな出来事が必要だと思ってたんだ。人生が変わるくらいのことが起きて、人が成長して、それを読者に見せる。でも、沙波がレモンスカッシュ一本選んだだけで嬉しそうにしてるのを見たら、そういう小さいことをちゃんと書いてみたくなった」
「嬉しそうでした?」
「かなり」
「恥ずかしいな……」
「僕には、すごく大事に見えたよ」
思いがけないほど静かな声だった。
「沙波にとっては飲み物を選んだだけかもしれないけど、何でもいいって言ってた人が、自分でこれがいいって決めたんでしょう。だったら僕は、そういうことを書きたいと思った」
小さいことを大事に書ける人になりたい、と以前瑠夏は言っていた。あれは創作論というより、彼が人を見る時の癖なのかもしれない。
「それで、沙波に最初に読んでほしくなった」
「途中から?」
「うん。新人賞に出したい気持ちは最初から変わってないし、自分のために書いたのも本当。でも、書いてるうちに、最初の読者は沙波がいいなって思った」
「表紙も?」
「表紙は最初から最後まで沙波のため」
迷いのない返答だった。
「紙も、空の色も、文字の位置も?」
「うん。沙波、本の装丁を見るの好きでしょう」
「よく覚えてますね」
「小説を書く人だから」
「それ、何でも覚えてる理由に使えません?」
「実際、覚えておきたいことは結構覚えてるよ」
瑠夏はそう言って笑った。その横顔を見ながら、沙波は昨夜から胸の内に置いていた言葉を、もう誤魔化せないのだと感じた。


