君に伝えたいことばを探しているうちに、夏が終わろうとしていた。
*
八月三十一日の朝、沙波はいつもより少し早く身支度を整えると、母に「友達に会ってくる」とだけ告げて家を出た。
どこへ行くの、と台所から尋ねられたものの、市立公園まで、と答えれば、それ以上詳しいことを聞かれることはなかった。母は味噌汁の火を弱めながら、昼食に間に合わないようなら連絡をすること、今日も暑くなるらしいから水分を忘れないことを言い添えただけで、沙波も「分かった」と答えて玄関の扉を閉めた。
以前なら、誰に会うのか、何をしに行くのか、何時頃には帰れるのかまで、自分から先回りして説明していただろう。今日は「友達に会う」だけで家を出られたことを、玄関の扉が閉まってから少し不思議に思った。
鞄の中には、昨夜読み終えた『夏にほどける』が入っている。
瑠夏が沙波のためだけに一冊の本に仕立てた、新人賞へ応募する小説だった。
途中から涙が止まらなくなり、一度だけ頁の端を濡らしてしまった。そのことに気づいた時は申し訳なくなったが、朝になって見返すと、ひどく傷めたわけでもない紙の波打ちまで含めて、自分が最初に読んだ一冊の痕跡のように感じられた。
瑠夏なら何と言うだろう。せっかく作ったのに、と困った顔をするだろうか。それとも、読んで泣いたなら仕方がないと笑うのだろうか。
どちらでもいいから、本人の口から聞きたかった。
市立公園へ向かう道には、朝から強い陽射しが落ちていた。
八月最後の日だというのに、町のどこにも夏が終わる気配はない。蝉は街路樹で声を競い、アスファルトはすでに熱を持ち始めている。日陰を選んで歩きながら、沙波は昨夜から何度も考えた言葉を、もう一度頭の中へ並べた。
昨夜から考えたのは、小説が好きだったこと、母を悪者にしなかったこと、主人公の未来を決めなかったこと、そして瑠夏が好きだということだった。順番を考えるほど言葉は整ったが、整うほど提出前の作文のようにも見えてくる。
昨日の夜に「会いたい」と送った時は、考えるより先に言葉が出た。ならば今日も、綺麗に伝えることばかり気にしなくていいのかもしれない。
公園に着くと、瑠夏は芝生広場の端で空を眺めていた。
初めて会った日のように寝転んではおらず、肩にはいつもの黒いリュックを掛け、足元には大きめのボストンバッグが置かれている。旅行へ出る人の荷物ではなく、暮らしている場所へ帰る人の荷物なのだと思った途端、昨日までどこか遠くにあった別れが、改めて現実へ近づいてきた。
「瑠夏さん」
呼び掛けると、彼はすぐに振り返った。
「おはよう、沙波。昨日ちゃんと寝た?」
「少し寝不足です。でも、途中でやめられなかったので、瑠夏さんにも責任があります」
「それなら、書いた側としては喜んでいいのかな」
「今日は喜んでいいと思います。明日以降は分かりませんけど」
「感想次第ってこと?」
「かなり」
冗談めかして返すと、瑠夏が少し安心したように笑った。自分ばかり緊張していると思っていたが、彼も同じなのかもしれない。
二人は木陰に移り、並んでベンチに座った。
朝の公園はまだ人が少なく、離れた遊具の近くで、小さな子どもと父親らしい人が遊んでいるくらいだった。芝生の上を通ってくる風には夜の名残のような涼しさがあり、頭上では葉が触れ合って乾いた音を立てている。
「それで」
瑠夏が、いくらか落ち着かない様子で口を開いた。
「どうだった?」
「小説?」
「それ以外、今の僕が聞きたいことないよ」
「本当に?」
「……ほかにもあるけど、まずそれ」
言葉の最後が少しだけ曖昧になり、沙波は思わず瑠夏を見る。
けれど彼は先を促すように待っている。
沙波は鞄の中にある一冊を意識しながら、昨夜自分が感じたことを思い返した。
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八月三十一日の朝、沙波はいつもより少し早く身支度を整えると、母に「友達に会ってくる」とだけ告げて家を出た。
どこへ行くの、と台所から尋ねられたものの、市立公園まで、と答えれば、それ以上詳しいことを聞かれることはなかった。母は味噌汁の火を弱めながら、昼食に間に合わないようなら連絡をすること、今日も暑くなるらしいから水分を忘れないことを言い添えただけで、沙波も「分かった」と答えて玄関の扉を閉めた。
以前なら、誰に会うのか、何をしに行くのか、何時頃には帰れるのかまで、自分から先回りして説明していただろう。今日は「友達に会う」だけで家を出られたことを、玄関の扉が閉まってから少し不思議に思った。
鞄の中には、昨夜読み終えた『夏にほどける』が入っている。
瑠夏が沙波のためだけに一冊の本に仕立てた、新人賞へ応募する小説だった。
途中から涙が止まらなくなり、一度だけ頁の端を濡らしてしまった。そのことに気づいた時は申し訳なくなったが、朝になって見返すと、ひどく傷めたわけでもない紙の波打ちまで含めて、自分が最初に読んだ一冊の痕跡のように感じられた。
瑠夏なら何と言うだろう。せっかく作ったのに、と困った顔をするだろうか。それとも、読んで泣いたなら仕方がないと笑うのだろうか。
どちらでもいいから、本人の口から聞きたかった。
市立公園へ向かう道には、朝から強い陽射しが落ちていた。
八月最後の日だというのに、町のどこにも夏が終わる気配はない。蝉は街路樹で声を競い、アスファルトはすでに熱を持ち始めている。日陰を選んで歩きながら、沙波は昨夜から何度も考えた言葉を、もう一度頭の中へ並べた。
昨夜から考えたのは、小説が好きだったこと、母を悪者にしなかったこと、主人公の未来を決めなかったこと、そして瑠夏が好きだということだった。順番を考えるほど言葉は整ったが、整うほど提出前の作文のようにも見えてくる。
昨日の夜に「会いたい」と送った時は、考えるより先に言葉が出た。ならば今日も、綺麗に伝えることばかり気にしなくていいのかもしれない。
公園に着くと、瑠夏は芝生広場の端で空を眺めていた。
初めて会った日のように寝転んではおらず、肩にはいつもの黒いリュックを掛け、足元には大きめのボストンバッグが置かれている。旅行へ出る人の荷物ではなく、暮らしている場所へ帰る人の荷物なのだと思った途端、昨日までどこか遠くにあった別れが、改めて現実へ近づいてきた。
「瑠夏さん」
呼び掛けると、彼はすぐに振り返った。
「おはよう、沙波。昨日ちゃんと寝た?」
「少し寝不足です。でも、途中でやめられなかったので、瑠夏さんにも責任があります」
「それなら、書いた側としては喜んでいいのかな」
「今日は喜んでいいと思います。明日以降は分かりませんけど」
「感想次第ってこと?」
「かなり」
冗談めかして返すと、瑠夏が少し安心したように笑った。自分ばかり緊張していると思っていたが、彼も同じなのかもしれない。
二人は木陰に移り、並んでベンチに座った。
朝の公園はまだ人が少なく、離れた遊具の近くで、小さな子どもと父親らしい人が遊んでいるくらいだった。芝生の上を通ってくる風には夜の名残のような涼しさがあり、頭上では葉が触れ合って乾いた音を立てている。
「それで」
瑠夏が、いくらか落ち着かない様子で口を開いた。
「どうだった?」
「小説?」
「それ以外、今の僕が聞きたいことないよ」
「本当に?」
「……ほかにもあるけど、まずそれ」
言葉の最後が少しだけ曖昧になり、沙波は思わず瑠夏を見る。
けれど彼は先を促すように待っている。
沙波は鞄の中にある一冊を意識しながら、昨夜自分が感じたことを思い返した。


