《読み終わりました》
そこまで打って送る。
ほどなく既読がつき《どうだった?》と返ってきた。
沙波は返信欄へ指を置いた。
ありがとう、すごくよかった、泣いた――どれも嘘ではないのに、今の気持ちには足りなかった。
それでも、今の気持ちを文字にしてしまえば、送る前に何度も読み返し、余計なところを削り、瑠夏が困らない形へ整えてしまう気がした。
瑠夏は一冊の物語を書いた。ならば自分は、たった一つくらい、自分の声で伝えてみたい。
《明日、会えますか》
送信すると、今度は少し間を置いて返事が届いた。
《午前中なら。どうしたの?》
どうしたの、と聞かれて困ったが、まだ画面では言いたくなかった。
画面の向こうではなく、顔を見て言いたかった。
《会いたいです》
それだけを送った。
返信が来るまでの時間は、実際には一分もなかったのだろう。
それでも沙波には、ひどく長く感じられた。
《うん。僕も会いたい》
文字を見た途端、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなった。明日、何をどう言うのかはまだ決められないが、少なくとも会いたいと伝えることはできた。
沙波は『夏にほどける』を両手で持ち、もう一度表紙を眺めた。
紙には何の温度もないはずなのに、そこには瑠夏がこの夏に費やした時間がある。
自分なら忘れてしまいそうだった日々を拾い、自分でも気づかなかった変化を見つけ、一つの物語になるまで考え続けてくれた人がいる。
本の表紙を眺めながら、沙波は明日、会いに行くことだけを決めた。離れるのが寂しいなら、それも隠さずに言ってみたかった。
窓辺へ立ってカーテンを開けると、夜空には雲が多く、星はほとんど見えなかった。
夏の初めの沙波なら、星の見えない空など眺めても仕方がないと思ったかもしれない。
けれど今は、雲の多い夜空も嫌いではなかった。
窓を少し開けると、昼間の熱をまだ残した風が入り込み、涙の跡が残る頬を撫でていく。
カレンダーが九月になったところで、夏が突然消えるわけではない。暑い日はまだ続くだろうし、蝉の声もすぐには聞こえなくならない。
それでも沙波にとって、この夏は明日で一度終わるのだと思う。
だからこそ、終わり方くらいは自分で選びたかった。
誰にも迷惑をかけないように笑い、綺麗な思い出にして見送るのではなく、言いたいことを自分の言葉で伝えてから、瑠夏が選んだ場所へ送り出したい。
どんな返事をもらえるのかは分からない。自分が望む言葉を返してくれるとも限らない。
それでも、自分で選んだ言葉なら、その先で何が起きても、少なくとも「本当は言いたかった」と後悔することだけはないように思えた。
沙波は窓を閉めると、机へ戻った。
傍らには、提出を終えた進路希望調査の控えが置かれている。第一志望はまだ空欄で、十年後に自分が何をしているのかも、相変わらず分からない。
けれど、明日どこへ行きたいのかは分かっていた。
沙波はいつものノートを開き、この夏に見つけたものが並んでいる頁を一枚ずつめくった。
レモンスカッシュ、一人で本屋へ行くこと、誰にも見せない空の写真、静かな場所、話さなくても気まずくならない時間、自分で選んだもの。好きなものを書いた頁を辿ってから、沙波は新しい行へペン先を置いた。
そこまで読み返してから、新しい行へペン先を置く。
文字にしたら認めなければならなくなる。それでも、好きなものを忘れないために始めたノートなのだから、この一行だけを避ける方が不自然だった。
沙波は迷わず、そこへ一つの名前を書き加えた。
――雨宮瑠夏。
書き終えた名前を見つめても、消したいとは思わなかった。明日、瑠夏は東京へ戻る。それでも、この夏に好きになったことまで消えるわけではない。
沙波はペンを置き、瑠夏から贈られた一冊をノートの隣へ並べた。
表紙には、夏の空が広がっている。
沙波はノートの隣に『夏にほどける』を置いた。空の表紙を見ていると、明日伝えたいことを今夜のうちに綺麗な言葉に整える必要はないように思えた。


