夏にほどける

 物語の少女は、最後まで進路を決めなかった。
 大学へ行くのか別の道を選ぶのか、何を仕事にしてどこで暮らすのか、好きになった人とこの先どうなるのか――どの問いにも、作者は答えを与えない。

 物語の中の夏が終わり、親しかった青年は自分の暮らす町へ帰っていく。
 少女は一人になった帰り道で、以前のように「どうすれば正しかったのだろう」とは考えなかった。
 大学へ進むべきだったのか、もっと友人たちに合わせるべきだったのか、好きだと伝えるべきだったのかと、以前の彼女なら正しい選択を探しただろう。

 考え始めれば、答えの出ない問いはいくつでもある。
 少女はそのすべてをいったん抱えたまま、自動販売機の前で立ち止まり、今の自分が飲みたいものを選ぶ。それから少し歩いたところで、ふと空を見上げる。

 最後の頁に書かれていた文章を、沙波は何度も読み返した。
 
 ——彼女には、まだ分からないことがいくつもあった。十年後にどこで暮らし、誰の隣にいて、何を仕事にしているのかも知らない。今日選んだ道を後悔する日が来るかもしれず、正しいと思ったものを、自分の手で間違いだったと認める日も来るのだろう。
 それでも、未来の自分まで今日の彼女が決めてしまう必要はなかった。間違えたなら、その日の自分が考えればいい。迷ったなら、また立ち止まり、その時に見えるものを確かめればいい。
 だから彼女は空を見上げた。誰かに綺麗だと教えられたからでも、そこに正しい答えが書かれているからでもなく、ただ、自分が見たいと思った空を見るために——。

 最後の一文まで読み終えてからも、沙波はしばらく頁をめくれなかった。
 これで終わりなのだと分かっているのに、まだどこかに続きを探している。
 ようやく次の頁へ指を掛けると、そこには何も書かれていなかった。
 その白さを見た瞬間、不思議なことに、続きを書いてほしいとは思わなかった。

 この少女がどこの大学へ行くのかを知りたいとは思わない。青年と恋人になるのか、十年後に何をしているのかも、今は知らないままでいい。
 未来が書かれていないこと自体が、この物語の終わりなのだと分かったからだった。
 沙波は静かに本を閉じ、表紙に広がる空を見つめた。


 『夏にほどける』という題名を初めて見た時、何がほどけるのだろうと思った。今は、その答えを一つの言葉へまとめる必要すらない気がした。

 沙波は表紙を開き、最初の空色の紙へ戻った。

 ——十七歳の沙波へ。

 今度は、その一行を見ただけで涙が溢れた。進路も十年後も分からない今の自分へ、瑠夏は一冊の本を書いた。何かを成し遂げた未来の沙波ではなく、迷っている十七歳の沙波へ向けて。

 そのことが、嬉しくてたまらなかった。そして同じくらい、寂しかった。

 明日になれば、瑠夏は東京へ戻る。そう思ったところで、昼間の別れ際に胸へ残ったものが、ようやく形を持った。

 行ってほしくない。浮かんだ言葉に、自分自身が戸惑った。

 東京へ戻るなという意味ではない。大学を辞めて、この町に残ってほしいわけでもなければ、瑠夏が選んできた生活を自分のために捨ててほしいわけでもない。

 ただ、このまま「またね」と笑って別れた今日を最後にしたくなかった。

 まだ伝えていない。この本を読んで何を思ったのかも、こんなに嬉しかったことも、自分の小さな変化を見つけてくれたことへの感謝も伝えていない。
 それどころか、一番大切なことを、沙波はまだ一度も言葉にしていなかった。

 瑠夏が好きなのだ。
 夏休みが終われば東京へ戻る人だと、最初から知っていた。それでも好きになった事実まで、先の寂しさを理由になかったことにはできない。

 涙を拭って机の時計を見ると、午後十一時を過ぎており、今から会いに行ける時間ではなかった。
 それでも明日の午後二時までは、この町にいる。

 瑠夏は見送りに来なくていいと言った。
 家族と一緒で、荷物もあり、落ち着いて話せないから。見送りに来なくていいと言われた理由は分かっているし、相手の事情を考えることも必要だと思う。

 けれど、相手の気持ちを勝手に想像し、迷惑をかけない答えだけを選ぶこととは違う。
 沙波はスマートフォンを手に取り、瑠夏とのメッセージ画面を開いた。