夏にほどける

 第四章――誰かと違う君のままで、を読み始めると、さっきまで穏やかだった胸の内側が詰まった。

 物語の少女は、人といる時によく笑った。楽しいから笑う時もあれば、相手を困らせないために笑う時もあり、本人はいつしか、その二つを区別しなくなっている。

 ある日、誰かの隣で長い時間を黙って過ごした少女は、会話をしなくても嫌われないことを知る。
 何か面白いことを言わなくても、明るく振る舞わなくても、その場にいてよいのだと初めて思う。
 そこで文字が滲み、沙波は瞬きをしてから目元を指で押さえた。

 図書館の中庭で、瑠夏と並んで本を読んだ日のことを思い出す。
 会話などほとんどなかった。それでも帰り道で、瑠夏は楽しかったと言った。
 何もしていないのに、と沙波が返すと、何もしないで一緒にいられるのも楽しいでしょう、と笑った。
 沙波にとっては、誰かへ話すほどの出来事ではなかった。
 それを、この人は覚えていたのだ。

 第五章――言えなかったことも、君だった、の頁を開く。

 誰かが幸せだった道を、同じように歩けば、私も幸せになれるのだろうか——。

 読み終えるより先に、涙が頬に落ちた。

 小説に登場する母親は、沙波の母とは違う人生を歩んでいる。
 娘へ掛ける言葉も違えば、家庭の事情も違う。それでも彼女は娘を愛しており、自分が歩いてきた中で比較的安全だった道を、娘にも教えようとする。

 少女が苦しんでいるのは、母親を嫌っているからではなかった。愛されていると分かっているからこそ、その期待に応えられない自分を責めてしまう。

 沙波は涙を拭いながら、先日の母との会話を思い返した。
 大学へ行ってほしい、普通に幸せになってほしい――自分へ向けられた母の願いが重なる。

 以前は、自分の人生を決めつける言葉にしか聞こえなかった。
 けれど母には、大学へ行かなかったことで選べなかったものがあり、娘には同じ後悔をさせたくなかったのだと知った。
 母の人生と自分の人生を、どちらか一方の正しさへ決めつけずに書いてくれたことが、沙波には何より嬉しかった。

 第六章――正解のない夏を、君と、まで来た時、沙波は涙の残った顔で笑ってしまった。

 好きなものを好きでいるために、誰かの許可が必要なのだと思っていた——。

 物語の少女は、古い映画を集めている大学生と出会う。
 誰に見せるでもなく、将来の仕事にするつもりもなく、ただ好きだからという理由で、彼は古い映画館へ通い、廃盤になった作品を探している。
 周囲からは、何の役に立つのかと聞かれる。そんなものに時間を使うなら、もっと将来のためになることをすればいいとも言われる。
 それでも彼は、自分の好きなものについて語る時だけは、誰にも申し訳なさそうな顔をしなかった。

 沙波は、すぐに瑠夏を思い出した。
 小説を書くことが好きだと話せば、変わっていると言われる。だから、普段はあまり人に言わない。
 そう笑っていた彼は、それでも小説を書くことをやめなかった。
 物語の大学生は瑠夏そのものではなかった。趣味も性格も違うのに、好きなものについてだけは誰にも申し訳なさそうにしない姿に、彼の一部が確かに混ざっている。
 むしろ、瑠夏が何を見て、何を受け取り、どんなことを考えていたのかを、初めて彼の側から教えてもらっているようだった。

 そして第七章――君が選ぶ明日を知らなくても、へ辿り着いた時、沙波はとうとう本を閉じた。章題に繰り返されてきた「君」が誰を指すのか、もう考えるまでもなかった。

 夏が終わることと、何かを失うことは、同じではないはずだった。

 目元を押さえても、涙が止まらなかった。
 泣きたいほど悲しい場面を読んだわけではない。
 それなのに、息を整えようとするほど喉が震え、沙波は本を傷めないよう机へ置いてから、両腕へ顔を伏せた。

 瑠夏は、自分なら何年か経てば忘れてしまいそうなことを見ていた。飲み物を選んだことも、友人の誘いを断ったことも、疲れた日に疲れたと言ったことも、母とぶつかったあとで話し直したことも。空の写真を一枚残したことも、将来を決められないまま、それでも分からないなりに調べてみようと思ったことも。

 どれも、沙波自身なら「そんなこと」と言ってしまいそうな出来事だった。
 進路は今も決まっておらず、将来の夢が見つかったわけでもない。夏休みが終わったからといって、明日から何も迷わない人間になれるはずもなく、教室へ戻れば周囲の目を気にすることも、母とまた言い合うこともあるだろう。

 それでも瑠夏は、完成していない今の自分を、一つの物語が生まれるほど大切に見てくれていた。沙波はしばらく泣いたあと、涙を拭って本を開き直した。最後まで読まなければならないからではなく、最後まで読みたいと思ったからだった。