夏にほどける

 夕食と風呂を早めに済ませ、自室の扉を閉めたのは午後八時を過ぎた頃だった。
 机の上には、瑠夏からもらった『夏にほどける』が置かれている。
 帰宅してから何度も表紙を眺めていたのに、いざ読み始めようとすると胸が落ち着かず、沙波は椅子へ座ってからもしばらく本へ手を伸ばせなかった。

 これまで瑠夏が小説を書いている姿は何度も見てきた。書けないと言って空を眺めていた日も、気に入らない場面を丸ごと消した日も知っている。
 それでも、彼が書き上げた物語そのものを読むのは初めてだった。

 沙波は椅子へ深く腰を下ろし、表紙を開く。
 淡い空色の紙に書かれた、十七歳の沙波へ、という一行をもう一度読んでから、今度こそ本文へ進んだ。

 最初の頁には、第一章――君が空を見上げた日、とあった。その下に置かれた一文へ目を移したところで、沙波の指が止まる。

 「彼女は、空を見ることを忘れていた。」――その一文を目にした瞬間、沙波は知っていると思った。
 同じ文章をどこかで読んだという意味ではない。むしろ、自分の中にずっとあったのに言葉にならなかったものに、突然名前を与えられたような感覚に近かった。

 物語の主人公は、沙波とはまったく違う名前の高校生だった。
 暮らしている町も、家族構成も違う。通っている学校も違えば、彼女を取り巻く友人たちにも、現実の誰かと重なる人物はいなかった。

 ただ、その少女は、自分が何をしたいのか分からない。
 友人から誘われれば予定を空け、親から勧められたものには、とりあえず頷く。何が好きなのかと尋ねられれば答えに詰まり、「何でもいい」と言えば相手を困らせずに済むことだけは知っている。

 沙波は頁をめくりながら、次第に本の向こう側へ、この夏の景色を重ねていった。
 物語の少女は、ある日、何の理由もなく空を見上げる。
 誰かに綺麗だと教えられたわけでも、空を見ることに意味があると説かれたわけでもない。ただ偶然立ち止まり、そこに広がっているものを見て、綺麗だと思った自分自身に驚く。

 沙波の記憶には、芝生へ寝転んでいた瑠夏の姿が浮かんだ。
 空を眺めたらどんな気持ちになるのか知りたかったから。
 初対面の日、瑠夏はそう言った。変わった人だと思った台詞も、今はもう、それほど不思議には聞こえなかった。
 あの日の空を、瑠夏も覚えていたのだと思うと、頁の文字が急に近いものになった。

 頁をめくると、第二章――君の「好き」をひとつずつ。その章題の下に置かれた一文を読んだところで、沙波はレモンスカッシュを思い出し、小さく笑った。

 小説の少女が選ぶものは、沙波が選んだ飲み物とは違う。それでも、冷蔵棚の前で迷い、自分が本当に飲みたいものを考える場面には、あの日の沙波が感じた戸惑いが確かに息づいていた。
 飲み物を一本選んだところで、人生が変わるわけではない。物語の中でも、その選択は大袈裟な転機として扱われていなかった。
 ただ少女は、自分で選んだものを口にして、それがおいしいと知る。
 瑠夏は、そういう小さなことを小さなまま、大切に書いていた。

 沙波は机の端に置いていたノートへ目を向ける。
 好きなものを書き留め始めた最初の頁には、今でも「レモンスカッシュ」とある。
 自分なら忘れてしまいそうな一日のことを、瑠夏は覚えていたのだと思うと、胸の奥が少しずつ熱くなっていった。

 第三章――君の知らない君を見ていた、へ入る頃には、時計を見ることも忘れていた。
 誰かと同じ場所にいなければ、友達ではいられないのだと思っていた。

 物語の少女は、友人たちから誘われた休日の予定を一度だけ断る。
 断った直後には後悔し、皆が自分のいない場所で楽しく過ごしているのではないか、明日から自分だけ話についていけなくなるのではないかと不安になる。
 それでも翌日には、友人から何気ないメッセージが届く。
 一度そこにいなかったくらいで、少女の日常は失われない。

 沙波は、海へ行かなかった日のグループチャットを思い出した。
 楽しそうな写真を見て、少し寂しかった。自分だけが知らない思い出ができたことも、やはり寂しかった。
 けれど同じ日に、自分にも友人たちが知らない時間があった。
 海へ行かなかった日の寂しさも、その日に自分だけが得た時間も、いまは同じ夏の中へ置いておける。