「これにしたんですね」
「最後まで迷ってたんだけど、書き終わったらほかの題名が考えられなくなった」
「どうして『夏にほどける』なんですか?」
「それは読んでから考えてみて。僕が答えを言うより、沙波がどう受け取ったか聞きたいから」
「またそうやって秘密にする」
「たぶん、これが最後の秘密」
表紙の下部には、著者として雨宮瑠夏の名前が印刷されている。
見慣れた三文字のはずなのに、小説の表紙に置かれているだけで、これまで知らなかった彼の一面を見せられたような気持ちになった。小説を書くことが好きだと言いながら、人に話せば変わっていると言われるから滅多に口にしないのだと笑っていた瑠夏が、自分の名前を載せられるところまで一つの物語を書き終えたのだ。
沙波は指先で表紙の端を撫でた。
つるつるした市販の文庫本とは違い、紙には柔らかなざらつきがある。
「これ、本当にどうしたんですか。応募用の原稿って、こういう形にするものなんですか?」
「応募はデータだから、本にする必要はないよ。一冊だけ作ってもらった」
「一冊だけ?」
「沙波に渡す分だけ」
思わず顔を上げると、瑠夏は照れた様子もなく続けた。
「本を選ぶ時、沙波は中身を見る前に表紙をかなり気にするでしょう。前に図書館でも、装丁が好きだから手に取ったって言ってたし、だったら最初に読んでもらう一冊は表紙から作りたいと思って」
「……空にしたのも?」
「今年の夏から、沙波が空を見るようになったから」
返す言葉はすぐには見つからなかった。
表紙に使うものを選び、紙を決め、文字の位置を考え、一冊の形にする。そのすべては新人賞へ応募するためには必要がなく、ただ沙波に渡すためだけに費やされた時間だった。
胸の内側がゆっくりと熱を持つ。
「ありがとう。……すごく、嬉しいです」
ようやく言えた言葉は、自分が受け取ったものに比べれば頼りない気がした。
けれど瑠夏は、もっと何か言わせようとはしなかった。
「家でゆっくり読んで」
「今から読み始めちゃ駄目ですか?」
「駄目じゃないけど、僕の隣で読み始めたら今日が終わると思う」
「今日中に読みます」
「無理して夜更かししなくていいから。逃げないし、本も消えないよ」
「でも、早く読みたいんです」
そう言うと、瑠夏は困ったように笑いながらも、「じゃあ読んで」と頷いた。
沙波は表紙を開いた。
見返しをめくると、本文との間に一枚だけ、淡い空色の紙が挟まれている。中央には印刷された文字ではなく、見覚えのある瑠夏の筆跡で一行だけ記されていた。
——十七歳の沙波へ。
沙波はしばらく、その頁から目を離せなかった。
未来の自分でも、もっと何かを成し遂げた自分でもなく、十七歳の沙波へ、と書いてある。
進路も決められず、好きなものを見つけ始めたばかりで、昨日より少し自分のことを知ったと思えば、翌日にはまた分からなくなる。そんな今の自分を指す言葉が、どうしてこれほど胸に触れるのか、うまく説明できなかった。
「……まだ一頁も読んでないのに、これ、ずるくないですか」
「何がずるいの?」
「泣きそうになるようなことを最初に書くところです。本文を読む前に泣いたら、瑠夏さんのせいですからね」
「それは困るな。できれば本文で泣いてほしい」
「泣かせるつもりで書いたんですか?」
「そういう意味じゃないよ」
瑠夏が笑ったので、沙波もつられて笑う。
その笑いに助けられるように本を閉じ、大切に鞄へ収めてから、二人で公園の中を歩いた。
自動販売機の前では、瑠夏が珍しく甘いミルクティーを選んだ。
「今日はそれなんですね。昨日だったらコーヒーだったのに」
「今日はミルクティーの気分だから。僕、そんなに毎日同じもの飲んでないでしょう」
「ブラックの日が多いから、最初はコーヒーしか飲まない人だと思ってました」
「砂糖とミルクを入れる日もあるし、カフェオレも頼むし、その日の気分で決めてるよ」
「知ってます。最近は」
沙波は迷った末、レモンスカッシュのボタンを押した。取り出し口に落ちてきた缶を拾うと、隣で瑠夏がそれを見て笑う。
「今日は最初に戻ったね」
「戻ったんじゃなくて、今日はこれが飲みたいんです」
「それなら全然違うね」
何気なく返された言葉に、沙波は缶を持ったまま瑠夏を見た。最初にこの飲み物を選んだ日とは、同じレモンスカッシュでも手の中の意味が違っていた。
二人は木陰のベンチへ移り、飲み物を片手に、これからのことを話した。
瑠夏は東京へ戻った翌日、まず冷蔵庫の中を確認して買い物へ行かなければならないらしい。出る前に食材はほとんど片づけたものの、調味料の賞味期限までは覚えていないという話を聞いていると、東京へ帰るという出来事が急に生活の匂いを帯びた。
大学が始まれば講義へ行き、空いた時間には小説を書き、腹が減れば何かを食べる。沙波も二学期になれば学校へ行き、友人たちと話し、授業を受け、進路について考える。
距離は離れても、どちらかの時間だけが止まるわけではない。
そう思えることは救いだったが、日が傾くにつれて胸の奥にある寂しさまで消えてくれるわけではなかった。
公園の入口まで戻った頃には、西へ傾いた陽が木々の影を長く路面へ落としていた。
「明日、何時に出るんですか」
「家を出るのは昼過ぎかな。二時くらいの新幹線を取ってる」
「じゃあ、この町にいるのも本当に明日までなんですね」
「うん。見送りは来なくていいからね。家族と出るし、荷物もあるから、たぶん落ち着いて話せないと思う」
「まだ行くって言ってないです」
「沙波なら来るかもしれないと思って」
「行ったら迷惑ですか?」
「迷惑じゃないよ。ただ、今日ちゃんと会えたから、無理して来なくてもいいってこと」
沙波はレモンスカッシュの空き缶を両手で持ちながら、小さく頷いた。
明日も会いたいと言えば、きっと瑠夏は拒まない。
それでも家族と過ごす帰省最後の日にまで、自分のための時間を取ってほしいと言うのは違う気がした。
「分かりました。小説、読んだら感想送ります」
「酷評だったら、できれば東京に着いてから送って。新幹線で立ち直れなくなるから」
「落ち込むんですか?」
「最初の読者だからね。新人賞の選考結果より緊張するかもしれない」
「じゃあ、ちゃんと読みます」
「うん。ちゃんと読んで、沙波が思ったことを聞かせて」
瑠夏は片手を上げると、普段と変わらない調子で「またね」と言った。
さよならではなかった。それなのに、歩き出した背中を見送っているうち、沙波の胸には言い残したものがあるような感覚が残った。
呼び止めようと思えば、まだ間に合う。
けれど、何を言えばよいのか分からないまま名前だけを呼ぶこともできず、瑠夏の姿が曲がり角の向こうへ消えるまで、沙波はその場に立っていた。


