誰かに見つけてもらったからといって、その人のものになるわけではない。それでも、自分では見つけられなかった自分を、誰かの目を通して知ることはある。
*
八月三十日の午後、沙波は市立公園へ向かう道をいつもよりゆっくり歩いていた。
明日になれば、瑠夏は東京へ戻る。帰省しているあいだだけ、この町にいる人なのだということは最初から知っていたし、大学が始まれば東京での生活へ戻るのも当然だった。それなのに、ずっと先のこととして聞いていた八月三十一日が「明日」に変わった途端、同じ事実が急に重みを増したように感じられる。
夏休みに入ってから一か月あまり、会いたいと思えば図書館へ行き、今日はいるだろうかと公園を覗くことのできた人が、明日からは電車を乗り継がなければ会えない場所へ戻ってしまう。
寂しいのだと認めることには、もう以前ほど抵抗がない。それでも、瑠夏には大学があり、東京で築いた暮らしがあり、小説を書く時間もある。そのどれも知っているから、自分の寂しさだけを理由に手放してほしいとは思えなかった。
それでも、今日がこの夏に会える最後の日になると思えば、何度も通った道までが名残惜しく見えてくる。
交差点の角にある古い花屋を過ぎ、午後になると建物の影が長く落ちる歩道を進む。途中には自動販売機があり、その前を通るたび、瑠夏に促されてレモンスカッシュを選んだ日のことを思い出した。
あの日までの沙波なら、たかが飲み物を一本選んだことなど、翌日には忘れていただろう。
何を飲むかくらいで悩む自分が嫌で、どれでもいいと決めつけ、そのまま本当に何が好きだったのか分からなくなる。それをおかしいとも思わずに過ごしていた。
夏休みの初め、沙波は行き先も決めずに家を出た。
今は、会いたい人のいる場所へ自分の足で向かっている。
それだけの違いなのに、同じ町の景色が以前とは少し違って見えた。
公園へ着くと、瑠夏は最初に出会った芝生広場ではなく、池の近くに置かれた木製のベンチに腰掛けていた。
白いシャツに黒いパンツという見慣れた格好で、隣にはいつものリュックがある。ただし、ここへ来れば大抵開いていたノートパソコンは見当たらず、その代わりに、膝の上へ薄い灰色の紙で包まれた四角いものを載せていた。
沙波が近づくと、瑠夏はすぐに気づいて顔を上げた。
「沙波」
「お待たせしました。ずっと待ってました?」
「十分くらいだから、僕の中ではまだ今来たところ」
「それを今来たとは言わないと思いますけど」
「待たされたと思ってないからいいんだよ」
いつもと変わらない声で返され、沙波は胸の奥で小さく息をついた。
明日この町を離れるからといって、今日の瑠夏まで別人になるわけではない。分かっていたはずのことを確かめるように隣へ腰を下ろすと、彼は膝の上に置いていた包みを両手で持ち上げた。
「応募するのは東京に戻ってからだけど、こっちは間に合った」
「もしかして、小説ですか?」
「うん。約束してたでしょう。完成したら最初に読んでもらうって」
差し出された包みを受け取ると、思っていたよりも重みがあった。
印刷した原稿をクリップで留めたようなものを想像していたのに、手に触れる形はどう考えても一冊の本で、沙波は思わず瑠夏と包みを見比べた。
「開けてもいいですか」
「そのために持ってきたんだから、もちろん」
薄い灰色の紙を傷つけないように剥がしていくと、中から現れた表紙を見たところで、沙波の指が止まった。
そこには、空があった。どこまでも鮮やかな青ではなく、薄い雲を透かして光のにじむ、夏の午後の空だった。写真なのか絵なのか、ひと目では判然としないほど淡い色合いで、眺めているうちに、この一か月で見上げたいくつもの空が記憶の底から浮かんでくる。
初めて瑠夏と会った日の、大きな入道雲が浮かんでいた空。図書館から帰る途中で足を止めた夕空。誰に見せるつもりもなく、綺麗だと思ったからという理由だけでスマートフォンへ残した空。
その中央には、控えめな大きさで題名が置かれていた。
「……『夏にほどける』」
声にしてみると、五文字は思っていた以上に静かに胸に馴染んだ。
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八月三十日の午後、沙波は市立公園へ向かう道をいつもよりゆっくり歩いていた。
明日になれば、瑠夏は東京へ戻る。帰省しているあいだだけ、この町にいる人なのだということは最初から知っていたし、大学が始まれば東京での生活へ戻るのも当然だった。それなのに、ずっと先のこととして聞いていた八月三十一日が「明日」に変わった途端、同じ事実が急に重みを増したように感じられる。
夏休みに入ってから一か月あまり、会いたいと思えば図書館へ行き、今日はいるだろうかと公園を覗くことのできた人が、明日からは電車を乗り継がなければ会えない場所へ戻ってしまう。
寂しいのだと認めることには、もう以前ほど抵抗がない。それでも、瑠夏には大学があり、東京で築いた暮らしがあり、小説を書く時間もある。そのどれも知っているから、自分の寂しさだけを理由に手放してほしいとは思えなかった。
それでも、今日がこの夏に会える最後の日になると思えば、何度も通った道までが名残惜しく見えてくる。
交差点の角にある古い花屋を過ぎ、午後になると建物の影が長く落ちる歩道を進む。途中には自動販売機があり、その前を通るたび、瑠夏に促されてレモンスカッシュを選んだ日のことを思い出した。
あの日までの沙波なら、たかが飲み物を一本選んだことなど、翌日には忘れていただろう。
何を飲むかくらいで悩む自分が嫌で、どれでもいいと決めつけ、そのまま本当に何が好きだったのか分からなくなる。それをおかしいとも思わずに過ごしていた。
夏休みの初め、沙波は行き先も決めずに家を出た。
今は、会いたい人のいる場所へ自分の足で向かっている。
それだけの違いなのに、同じ町の景色が以前とは少し違って見えた。
公園へ着くと、瑠夏は最初に出会った芝生広場ではなく、池の近くに置かれた木製のベンチに腰掛けていた。
白いシャツに黒いパンツという見慣れた格好で、隣にはいつものリュックがある。ただし、ここへ来れば大抵開いていたノートパソコンは見当たらず、その代わりに、膝の上へ薄い灰色の紙で包まれた四角いものを載せていた。
沙波が近づくと、瑠夏はすぐに気づいて顔を上げた。
「沙波」
「お待たせしました。ずっと待ってました?」
「十分くらいだから、僕の中ではまだ今来たところ」
「それを今来たとは言わないと思いますけど」
「待たされたと思ってないからいいんだよ」
いつもと変わらない声で返され、沙波は胸の奥で小さく息をついた。
明日この町を離れるからといって、今日の瑠夏まで別人になるわけではない。分かっていたはずのことを確かめるように隣へ腰を下ろすと、彼は膝の上に置いていた包みを両手で持ち上げた。
「応募するのは東京に戻ってからだけど、こっちは間に合った」
「もしかして、小説ですか?」
「うん。約束してたでしょう。完成したら最初に読んでもらうって」
差し出された包みを受け取ると、思っていたよりも重みがあった。
印刷した原稿をクリップで留めたようなものを想像していたのに、手に触れる形はどう考えても一冊の本で、沙波は思わず瑠夏と包みを見比べた。
「開けてもいいですか」
「そのために持ってきたんだから、もちろん」
薄い灰色の紙を傷つけないように剥がしていくと、中から現れた表紙を見たところで、沙波の指が止まった。
そこには、空があった。どこまでも鮮やかな青ではなく、薄い雲を透かして光のにじむ、夏の午後の空だった。写真なのか絵なのか、ひと目では判然としないほど淡い色合いで、眺めているうちに、この一か月で見上げたいくつもの空が記憶の底から浮かんでくる。
初めて瑠夏と会った日の、大きな入道雲が浮かんでいた空。図書館から帰る途中で足を止めた夕空。誰に見せるつもりもなく、綺麗だと思ったからという理由だけでスマートフォンへ残した空。
その中央には、控えめな大きさで題名が置かれていた。
「……『夏にほどける』」
声にしてみると、五文字は思っていた以上に静かに胸に馴染んだ。


