夏にほどける



 その夜、瑠夏は自室で、書き上げた原稿を最初の頁から読み返していた。

 窓の外では、夏の虫が鳴いている。
 東京へ持ち帰る荷物はまだほとんどまとめておらず、床の隅には空の旅行鞄が置かれたままだった。

 画面の中には、一人の少女がいる。
 誰かに薦められた道を歩けば間違えないと思い、自分が何を好きなのかさえ分からなくなっていた少女。
 飲み物を一本選び、本を一冊手に取り、友人の誘いを断り、母親とぶつかり、それでも少しずつ自分の言葉を持つようになっていく。
 沙波をそのまま写した少女ではないし、この夏の出来事を記録したつもりもなかった。それでも彼女に会わなければ、この物語の形には辿り着かなかっただろう。

 最初の構成を捨て、劇的な転機ではなく小さな選択を書き始めた頃から、物語はようやく自分のものになった。
 瑠夏は最終章まで読み終え、文章の最後にカーソルを置いた。
 以前から考えていた一文として、「少女は、自分の行き先をまだ知らない」と入力する。
 けれど、空を見上げるかどうかくらいなら、自分で決められる。

 そこまで書いて、手を止めた。
 何度か読み返し、最後の一文だけを削除する。
 少し違う。もっと、この物語に合う終わりがある気がした。

 瑠夏は椅子から立ち上がり、机の上に積んでいた紙を一枚取る。
 机の上に積んでいたのは表紙の案を描いた紙だった。青い空と雲だけを置き、それ以上のものは入れないつもりでいる。沙波なら、どんな表紙を好きだろうと考えると、瑠夏は小さく笑った。

 新人賞へ送る原稿に、表紙の装丁など必要ない。それでも一冊だけ、紙の本にしたいと思っていた。
 新人賞へ送るためではなく、読んでほしい人へ渡すために、瑠夏は一冊だけ紙の本を作ろうと思っていた。
 瑠夏は再び椅子へ座り、原稿の先頭へ戻る。
 まだ決まっていなかった題名の欄へ、数日前から頭に残っていた言葉を入力した。

 ——夏にほどける。

 画面の上に現れた五文字を、瑠夏は長いあいだ見つめていた。