夏にほどける

 帰宅すると、母がダイニングテーブルで大学の資料を見ていた。
 沙波が夏休み中に取り寄せたものだった。

「おかえり」
「ただいま。何見てるの?」
「これ、沙波が取り寄せたんでしょう。勝手に開けてないわよ。表紙だけ見てたの」

 母は少し気まずそうに笑った。
 沙波は鞄を椅子へ置き、母の向かいへ座った。

「今日、進路希望出してきたよ」
「どうしたの?」
「第一志望、空欄で出した」

 母の眉が上がる。

「先生、何て?」
「次はもう少し絞ってって。でも今は受け取ってもらった」
「そう」

 母はすぐには何も言わなかった。
 以前なら「だから早く決めなさい」と続いたかもしれない。
 それがなかったので、沙波の方から話したくなった。

「大学は、たぶん行く可能性が一番高いと思う」
「そうなの?」
「うん。でも、大学ならどこでもいい、とは思わなくなった。行くなら、自分が何か興味持てるところがいい」
「何に興味あるの?」
「それが、まだはっきりしない」

 母が少し笑った。

「やっぱり分からないのね」
「でも前よりは分かってきたよ。文学部とか、社会学部とかはもう少し見てみたい。あと、大学以外も一応調べてる」
「そう」

 母が資料の表紙へ目を落としたので、沙波は少し迷ってから尋ねた。

「お母さんは、高校の時、何になりたかった?」
「急にどうしたの?」
「聞いたことなかったなと思って」
「何になりたかったんだろう……」

 母はしばらく考えた。

「短大に行こうかなって思ってた時期はあったかな」
「行かなかったよね」
「うん。家のこともあったし、高校を出てそのまま働いたの」
「後悔した?」

 母の表情が少し変わった。

「した時もあったよ」

 沙波は黙って続きを待つ。

「あなたが小さい頃、再就職しようと思った時に、大卒って条件の求人を見て、大学行っておけばよかったなって思ったこともあるし。同級生が大学の話をしてるのを聞いて、羨ましかった時もあった」
「だから私に大学行けって言ってたの?」
「それだけじゃないけど、たぶん大きかったんでしょうね」

 母は苦笑する。

「自分が持てなかったものって、子どもには持たせてあげたくなるじゃない。選択肢が多い方がいいと思ってた」
「……うん」
「でも、それもお母さんの後悔なのよね」

 母は自分へ言い聞かせるように呟いた。

「あなたが同じことで後悔するとは限らないのに」

 沙波は胸の中で、何かが静かに形を変えるのを感じた。
 母の「大学へ行きなさい」は、世間の正解を押しつけたかったからではない。
 母自身が歩けなかった道を、娘には残しておきたかった。

「二十三で結婚したのは?」
「それは後悔してない」

 母が即答したため、沙波は可笑しくなって笑った。

「お父さんのこと好きだったんだ」
「何その聞き方。当たり前でしょう」
「ちゃんと聞いたことなかったから」
「あなた、お母さんを何だと思ってるのよ」
「二十三で結婚して、二十四で私を産んだ人」
「それを言ったのは私だけど」

 二人で笑う。
 母はしばらくしてから、少し真面目な顔になった。

「ただね、沙波。お母さんが二十三で結婚したからって、あなたまで同じ年齢で結婚しなさいとは思ってないからね」
「うん」
「前に言い方が悪かったけど、私が言いたかった普通って、別に年齢まで同じにしろって意味じゃなかったの」
「じゃあ、何だったの?」

 母は考える。

「……大きな苦労をせずに、朝起きて、働いて、ご飯を食べて、たまに好きなことをして、安心して眠れることかな」
 沙波は少し驚いた。もっと具体的な答えが返ってくると思っていた。
「それ、お母さんの普通?」
「たぶんね」
「そっか」

 沙波は小さく頷き、それなら悪くないと思った。
 大学を出ることでも、結婚することでも、子どもを持つことでもなかった。
 母にとって「普通に幸せ」とは、安心して一日を終えられることだったらしい。

「沙波の普通は?」
「まだ分かんない」
「そう言うと思った」
「でも、お母さんのと同じところもあるかもしれない」

 朝起きてご飯を食べ、好きな本を読み、空が綺麗なら見上げ、会いたい人がいれば会う。母が語る幸せは、思っていたよりずっと小さなことの集まりだった。
 夜になれば、今日も悪くなかったと思って眠る。
 そんな暮らしなら、自分も好きかもしれない。

「大学のこと、行ってほしい気持ちは、たぶんまだある」
「うん」
「でも、お母さんが安心するためだけに決めなくていいから」

 沙波は母を見る。

「……いいの?」
「よくないって言っても、自分で決めるんでしょう?」
「たぶん」
「なら仕方ないじゃない」

 母は困ったように笑う。

「親って、子どもが失敗しそうなら止めたくなるものなのよ。でも、何が失敗かなんて、本当は後にならないと分からないのかもね」

 瑠夏に似ていると思う一方で、どこか少し違うとも感じた。
 母には母の人生から出た言葉があり、瑠夏には瑠夏の経験から生まれた考えがある。
 どちらが正しいのではない。
 沙波はその二つを聞いて、自分で何を受け取るかを決めればいい。

「お母さん」
「何?」
「わたしね、普通って言われるの、嫌だった」
「うん」
「でも今は、ちょっと意味が分かった気がする」
「お母さんの?」
「ううん。普通って、一個じゃないんだなって」

 母は少し考えてから、「そうかもね」と笑った。
 完全に同じ考えになったわけではない。
 これから進路の話をすれば、また意見がぶつかることもあるだろう。
 それでも、分かり合うとは同じ答えを持つことではないのかもしれなかった。