蝉の声が幾重にも重なり、風が通るたび、芝生の上へ柔らかな波が生まれる。離れた場所から子どもの笑い声が届き、木々の葉が揺れるたび、日向と影の境目が形を変えた。
しばらく眺めていると、大きな入道雲の端が、耳を立てた動物の横顔に見えてきた。
「……犬みたい」
考えるより先に声へ出ていた。
隣の男が、沙波の見ている方角へ目を凝らす。
「どれ?」
「あそこ。右側です。耳みたいなのが二つあるでしょう」
「僕にはワニに見える」
「ワニ?」
「こっちが口。かなり大きく開けてる」
指で示された輪郭を辿ってみると、確かにそう思えば見えなくもない。
「でも私は犬の方が近いと思います」
「じゃあ、同じもの見てるのに違うんだね」
彼はそれだけ言って空へ視線を戻し、沙波も、犬にもワニにも見える雲をどちらが正しいと決めることなく眺め続けた。
どちらかが間違いだと決めるほどのことでもないので、沙波もそのまま空を眺めた。
「……綺麗ですね」
少ししてから、自然に言葉が漏れた。
「うん。僕もそう思った」
その答えを聞いた時、沙波は先ほどまでより少しだけ空が近くなったように感じた。
誰かが綺麗だと言ったから同意したのではなく、SNSへ載せた時に映えそうだからでもない。
自分の目に入った空を、自分が綺麗だと思った。そんなことをわざわざ考えるのは変なのかもしれなかったが、今日は忘れずにいようと思った。
日差しが強くなってきたため、二人は芝生を離れて木陰のベンチへ移った。
自動販売機で沙波は麦茶を買い、男は透明な炭酸水を選んだ。ペットボトルを開ける彼の指は細長く、日に焼けていない手が夏の光の下で目についたが、知らない男の手を見ていたことに自分で気づき、沙波はすぐ麦茶へ視線を落とした。
「そういえば、名前を聞いてなかった」
炭酸水を一口飲んでから、彼がこちらを見る。
「岸本沙波です」
「さなみ?」
「はい。さんずいに『少ない』って書く沙に、波です」
「沙に波。海みたいな名前だね」
「よく言われます」
「いい名前だね」
ありふれた感想のはずなのに、迷いなく言われると少し照れる。
「あなたは?」
「雨宮瑠夏。雨の宮に、瑠璃の『瑠』と夏」
「瑠夏さん」
「さん付け?」
「大学生なんでしょう」
「一つしか違わないよ」
「それでも年上です」
「じゃあ、好きに呼んで」
瑠夏は諦めたように笑った。
笑うと、目尻が少しだけ下がる。その変化を何となく見てしまったことが気恥ずかしくなり、沙波は話を続けた。
「夏生まれなんですか?」
「うん。八月」
「本当に名前の通りなんですね」
「母親が、夏に生まれたからってつけたらしい。分かりやすいよね」
「でも似合ってます」
「そう?」
「さっきから夏の空ばっかり見てるから」
口にすると自分でも可笑しくなり、沙波は笑った。瑠夏も、つられるように口元を緩める。
「沙波は、自分の名前好き?」
急に問い返され、麦茶を持ったまま考えた。
「……分かりません。考えたことなかったです」
「そっか」
「それだけ?」
「僕が聞いたからって、今ここで好きか嫌いか決めなくてもいいでしょう」
「自分の名前なのに?」
「僕も自分の名前、好きかって聞かれたら日によって違うかもしれないし」
「日によって変わるんですか?」
「たぶん。今日は嫌いじゃない」
「八月だから?」
「それもあるかも」
思っていたより適当な答えが返ってきて、沙波はまた笑った。
先ほどまでの瑠夏は、空を見ながら難しいことを考えている人に見えた。けれど話してみれば、何でもきちんと答えを持っているわけではないらしい。
その方が、少し話しやすかった。
しばらく眺めていると、大きな入道雲の端が、耳を立てた動物の横顔に見えてきた。
「……犬みたい」
考えるより先に声へ出ていた。
隣の男が、沙波の見ている方角へ目を凝らす。
「どれ?」
「あそこ。右側です。耳みたいなのが二つあるでしょう」
「僕にはワニに見える」
「ワニ?」
「こっちが口。かなり大きく開けてる」
指で示された輪郭を辿ってみると、確かにそう思えば見えなくもない。
「でも私は犬の方が近いと思います」
「じゃあ、同じもの見てるのに違うんだね」
彼はそれだけ言って空へ視線を戻し、沙波も、犬にもワニにも見える雲をどちらが正しいと決めることなく眺め続けた。
どちらかが間違いだと決めるほどのことでもないので、沙波もそのまま空を眺めた。
「……綺麗ですね」
少ししてから、自然に言葉が漏れた。
「うん。僕もそう思った」
その答えを聞いた時、沙波は先ほどまでより少しだけ空が近くなったように感じた。
誰かが綺麗だと言ったから同意したのではなく、SNSへ載せた時に映えそうだからでもない。
自分の目に入った空を、自分が綺麗だと思った。そんなことをわざわざ考えるのは変なのかもしれなかったが、今日は忘れずにいようと思った。
日差しが強くなってきたため、二人は芝生を離れて木陰のベンチへ移った。
自動販売機で沙波は麦茶を買い、男は透明な炭酸水を選んだ。ペットボトルを開ける彼の指は細長く、日に焼けていない手が夏の光の下で目についたが、知らない男の手を見ていたことに自分で気づき、沙波はすぐ麦茶へ視線を落とした。
「そういえば、名前を聞いてなかった」
炭酸水を一口飲んでから、彼がこちらを見る。
「岸本沙波です」
「さなみ?」
「はい。さんずいに『少ない』って書く沙に、波です」
「沙に波。海みたいな名前だね」
「よく言われます」
「いい名前だね」
ありふれた感想のはずなのに、迷いなく言われると少し照れる。
「あなたは?」
「雨宮瑠夏。雨の宮に、瑠璃の『瑠』と夏」
「瑠夏さん」
「さん付け?」
「大学生なんでしょう」
「一つしか違わないよ」
「それでも年上です」
「じゃあ、好きに呼んで」
瑠夏は諦めたように笑った。
笑うと、目尻が少しだけ下がる。その変化を何となく見てしまったことが気恥ずかしくなり、沙波は話を続けた。
「夏生まれなんですか?」
「うん。八月」
「本当に名前の通りなんですね」
「母親が、夏に生まれたからってつけたらしい。分かりやすいよね」
「でも似合ってます」
「そう?」
「さっきから夏の空ばっかり見てるから」
口にすると自分でも可笑しくなり、沙波は笑った。瑠夏も、つられるように口元を緩める。
「沙波は、自分の名前好き?」
急に問い返され、麦茶を持ったまま考えた。
「……分かりません。考えたことなかったです」
「そっか」
「それだけ?」
「僕が聞いたからって、今ここで好きか嫌いか決めなくてもいいでしょう」
「自分の名前なのに?」
「僕も自分の名前、好きかって聞かれたら日によって違うかもしれないし」
「日によって変わるんですか?」
「たぶん。今日は嫌いじゃない」
「八月だから?」
「それもあるかも」
思っていたより適当な答えが返ってきて、沙波はまた笑った。
先ほどまでの瑠夏は、空を見ながら難しいことを考えている人に見えた。けれど話してみれば、何でもきちんと答えを持っているわけではないらしい。
その方が、少し話しやすかった。


