夏にほどける

 放課後、沙波は一人で図書館へ向かった。
 学校から市立図書館までは、自宅へ戻るより少し遠い。
 それでも、夏休みの間に何度も歩いた道はすっかり見慣れていた。

 瑠夏は二階の窓際にいた。ノートパソコンに向かい、片手で頬杖をつきながら画面を見つめている。
 沙波が近づくと、気配に気づいたらしく顔を上げた。

「制服」

 第一声がそれだった。

「学校だったので」
「高校生だったんだね」
「今さら何言ってるんですか」
「いつも私服で会ってたから、ちょっと新鮮」

 瑠夏の視線が制服へ向いていることに気づくと、沙波は少し気恥ずかしくなった。

「見ないでください」
「どうして?」
「何となく」
「似合ってるよ」

 さらりと言われて返事に困る。最近、こういう時の瑠夏は少しずるいと思う。
 本人には特別なことを言った自覚がないようで、先に視線をパソコンへ戻してしまう。
 沙波は向かいの席へ座り、鞄から本を取り出そうとしてやめた。

「進路希望、出してきました」

 瑠夏の指がキーボードから離れる。

「決めた?」
「決めてません」
「そっか」
「第一志望、空欄です」
「先生に怒られなかった?」
「少し言われました。でも、今日は受け取ってもらえました」
「よかったね」
「よかったのかな」
「沙波はどう思ってる?」

 また同じ返し方をされ、沙波は苦笑した。

「前よりは、よかったと思ってます」
「じゃあよかったんじゃない?」
「でも先生に、『分からないを逃げ道にするな』って言われました」
「いい先生だね」
「瑠夏さんと似たこと言ってました」
「僕そんな立派なこと言った?」
「言ってることだけなら、たまに」
「だけなら?」
「中身は大学一年生です」

 瑠夏が笑う。その笑顔を見た瞬間、もうすぐこの人はここにいなくなるのだと思ってしまった。
 沙波の表情から何かを読み取ったのか、瑠夏が少し首を傾ける。

「どうしたの?」
「……東京、いつ戻るんですか」

 聞くつもりで来たわけではなかったのに、口にした以上は答えを知りたかった。

「三十一日」
「八月の?」
「うん。九月から大学の予定もあるし、新学期の前に向こうで片づけたいこともあるから」

 今日は二十五日だから、残っているのはあと六日しかない。思っていたより、ずっと近かった。

「そっか」

 声が沈まないようにしたつもりだったが、瑠夏は沙波の方を見ていた。

「寂しい?」

 思いがけず真正面から尋ねられ、沙波は視線を逸らした。

「……急ですね」
「嫌なら答えなくていいよ」

 東京へ戻ることは最初から知っていたし、仕方のないことでもある。何より、そんなことで瑠夏を困らせたくなかった。
 そうやって、自分の気持ちより先に相手にとって扱いやすい答えを選んだ。
 沙波は制服のスカートの上で、指を組む。

「寂しいです」

 口にしてしまえば驚くほど簡単で、瑠夏の目が少し細くなった。

「僕も」
「……本当に?」
「本当だよ」
「東京に帰りたくないくらい?」

 言ってから、聞きすぎたと思った。
 けれど瑠夏は少し考えて、誤魔化さず答える。

「沙波に会えなくなるのは寂しい。でも、東京には戻るよ」
「はい」
「大学もあるし、向こうの生活も好きだから」
「分かってます」

 胸が痛くないと言えば嘘になるのに、その痛みまで含めて嫌だとは思わなかった。
 瑠夏が自分のために東京を捨ててくれたら嬉しいのだろうか、と考えてみる。
 たぶん違う。大学へ通い、小説を書き、東京で自分の時間を持つ瑠夏を知っている。その部分を失ってまで、近くにいてほしいとは思わなかった。

「沙波は、学校始まるね」
「はい。休み足りません」
「夏休み好き?」
「今年は好きでした」
「今年は?」
「今までは、結局宿題して友達と遊んで終わってたので。嫌いじゃなかったけど、今年みたいに一日一日を覚えてないです」
「今年は覚えてる?」
「結構」

 レモンスカッシュを選んだ日も、空を眺めた日も、図書館で本を選んだ日も、瑠夏の指が頬の髪へ触れた日も。

「瑠夏さんは?」
「今年の夏?」
「はい」

 瑠夏は窓の外へ目を向けた。

「たぶん、ずっと覚えてると思う」

 その声は小さかった。
 沙波は何を思ってそう言ったのか聞きたかったが、図書館の中であることを理由に、その問いを飲み込んだ。