夏にほどける

 夏休み最後の登校日は、進路希望調査を提出する日でもあった。
 久しぶりに制服へ袖を通し、駅までの道を歩いていると、夏の終わりが急に現実味を帯びる。
 学校へ着けば、廊下には友人たちの声が響いていた。
 日焼けした子もいれば、髪を少し切った子もいる。海や花火大会の話が飛び交い、旅行先のお土産が机の上を渡っていった。

「沙波、久しぶり!」

 教室へ入った途端、友人の一人が抱きつくような勢いで寄ってくる。

「全然久しぶりじゃないでしょ。先週カラオケ行ったじゃん」
「学校で会うのは久しぶりだからいいの」
「そういうもの?」
「そういうもの」

 笑いながら席へ向かう。
 クラスのグループチャットの通知を切ったことを、誰にも知られていない。
 当然だった。あれだけ大きな決断のように感じたことも、他人から見れば変化ですらない。

 夏祭りにも参加した。浴衣は着なかったが、友人たちと屋台を回り、かき氷を食べ、花火を見た。途中で瑠夏から《花火見える?》とメッセージが届き、友人たちといるのに少しだけ心拍が速くなったことは、まだ誰にも話していない。

 友達と過ごす夏も楽しかったし、一人で過ごす時間も好きだった。どちらかを捨てなくてもよかったのだと知っただけで、去年までと同じ友人たちとの時間も少し違って見える。

「そういえば進路のやつ、書いた?」

 隣の席から聞かれ、沙波は鞄の中の紙へ触れた。

「一応」
「どこにした?」
「まだ大学名は決めてない」
「え、空欄で出すの? 先生に言われない?」
「言われると思う」

 友人は少し驚いた顔をしたものの、それ以上は何も言わず、「私はとりあえず第二希望まで適当に書いちゃった」と自分の紙を見せてきた。
 第一志望には私立大学の名前があり、第二志望にも別の学校が書かれている。

「そこ行きたいの?」
「全然分かんない。でも空欄だとなんか言われそうじゃん」
「そっか」
「沙波、最近ちょっと変わったよね」

 突然言われ、沙波は友人を見る。

「変わった?」
「悪い意味じゃないよ。前はこういうの、とりあえずちゃんと埋めそうだったから」

 胸の奥へ引っ掛かったのは、「変わってる」という短い言葉だった。
 瑠夏が小説を書いていると言うたび、そう言われてきた話を思い出した。
 以前なら、自分もそう思われることを避けたかった。

「……変わったかな」
「ちょっとね。でも最近の沙波、前より喋りやすいかも」
「どういうこと?」
「分かんない。前って何聞いても『どっちでもいいよ』とか『みんなに合わせる』って言うこと多かったじゃん。今は嫌なら嫌って言うから、逆に分かりやすい」

 思いもしなかった言葉だった。
 自分の意見を言えば、面倒な人間になるのではないかと思っていた。
 けれど相手にとっては、反対だったらしい。

「それ、いいこと?」
「私は楽だけど。沙波がいいならいいんじゃない?」

 友人はそう言って、別の子から呼ばれるとそちらへ向かった。
 残された沙波は少し笑い、瑠夏なら何と言うだろうと考えた。
 自分の言葉をどう受け取るかは相手のものだ、とでも言うのかもしれない。


 ホームルームが終わったあと、沙波は担任から呼び止められた。

「岸本、少しいいか」

 予想していたことだったので、沙波は進路希望調査を持って教卓へ向かった。

「第一志望が空欄なんだけど」
「はい」
「まだ決まってない?」
「決めていません」

 担任は紙へ目を落とす。裏面にも書き込みがあることに気づき、裏返して内容を読む。

「結構調べてるんだな」
「夏休みに少しだけ」
「大学進学をやめたいわけではない?」
「それも、まだ分かりません。でも今すぐ就職したいわけでもないので、今のところ大学へ行く可能性が一番高いと思っています」
「それなら、とりあえず候補を書いてもよかったんじゃないか」

 沙波は少し迷い、それから首を横へ振った。

「候補はあります。でも、第一志望と書くほど行きたい場所は、まだありません」

 口にすると、自分の声が思っていたより落ち着いていることに気づく。
 担任は叱らなかった。

「まあ、二年の夏だから、決まってないこと自体は珍しくない。ただ、このまま何となく三年になるのは困るぞ」
「はい。それは分かっています」
「なら、この辺の大学からいくつか見ておけ。オープンキャンパスも秋にあるところはあるし、大学だけじゃなく専門や就職も、興味があるなら進路室で資料を見ていい」
「ありがとうございます」

 担任は紙をもう一度見てから、赤ペンで何かを書き込んだ。

「今日はこれで受け取る。ただし、次はもう少し絞れるようにしてこい」
「はい」

 提出を拒まれなかったことに、沙波は少し拍子抜けした。
 空欄のまま出せば、もっと強く注意されると思っていた。

「先生」
「何だ?」
「まだ決められないって書くの、駄目ですか」

 担任は一瞬考えた。

「ずっとそれなら困る。でも、本当に調べた上で今そう思ってるなら、今はそれでもいいんじゃないか」

 沙波は息をついた。

「ただし、『分からない』を便利な逃げ道にするなよ」
「はい」
「分からないなら、分かるために動け。それで来年も分からなければ、その時また考える」

 思わぬところで瑠夏と似た言葉を聞き、沙波は少し笑った。

「何だ?」
「いえ。似たようなことを言う人がいたので」
「俺より説教くさい奴か?」
「……どうでしょう」

 少なくとも、自分では説教をしているつもりなどない人だった。