夏にほどける

 夏が終わることと、何かを失うことは、同じではないはずだった。

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 八月も後半へ入ると、午後七時を過ぎても残っていた明るさが、少しずつ短くなり始めた。
 日中の暑さは相変わらずで、駅前を歩けば照り返しに顔をしかめるし、住宅街では朝から蝉の声が重なっている。それでも夕方になれば、ついこの前までとは違う風が吹く。夏の真ん中にいた頃には気にも留めなかった変化を、岸本沙波は今年になって初めて意識するようになっていた。

 夏休みが終わる。それ自体は毎年同じことなのに、今年だけは、二学期が始まるという事実とは別の意味を持っている。

 瑠夏が東京へ戻る。そのことを考えるたび、胸の内側に細い糸を引かれるような感覚があった。

 瑠夏は最初から帰省中だと言っていた。大学が始まれば東京へ戻ることも、その時になれば今のように何度も図書館で会えなくなることも分かっている。知らされていなかった別れではないのだから、受け入れるための時間なら十分あったはずだった。
 それでも、頭で分かっていることと、平気でいられることは別らしい。

 沙波は自室の机へ頬杖をつき、開いたままの進路希望調査から目を逸らすように、窓の向こうへ視線を移した。
 薄い青の空に、夕暮れの色が混じり始めている。

 夏休みに入った頃なら、夕焼けが何色だったかなど気にも留めなかった。今では、同じ場所から眺めても日によって違って見えることを知っている。

 空を見たら、自分がどんな気持ちになるのか知りたかった。最初に会った日、芝生に寝転んでいた瑠夏はそう言った。
 あの時はずいぶん変わった人だと思ったが、今は、見なければ分からないことがあるという意味くらいなら理解できる。その理屈で言えば、沙波にはもう一つ、かなり前から気づいていることがあった。

 瑠夏が好きなのだと思う。
 ノートには、まだはっきりそう書いていない。
 けれど彼に会える日は嬉しく、会えないと少し寂しい。メッセージが届けば何をしていても画面を確かめたくなるし、小説が進んだと聞けば安心する。頬へ張りついた髪を払われた日のことなど、思い出す必要もない場面で突然蘇り、そのたびに指先の感触を勝手に補ってしまう。

 そんな相手がもうすぐ東京へ戻ることを考えながら、沙波は机へ向き直った。進路希望調査の提出期限も近づいている。
 夏休みの始まりに大きく見えた紙は、今も同じように白かった。

 以前と違っているところもあり、大学へ行くかどうかを二択だけで考える必要はないと思えるようになっていた。
 その二択だけを見て、立ち尽くすことはなくなった。

 母と行ったオープンキャンパスのあと、自分でもいくつかの大学を調べた。気になる学部があれば授業内容まで読んでみたし、専門学校の資料も請求した。高校卒業後に就職する場合、どのような求人があるのかも学校の進路室で確認している。

 調べた結果、何か一つが輝いて見えたわけではなかった。むしろ知らなかった選択肢が増え、その分だけ、以前より迷っているとも言える。
 それでも、「何も考えていない」のとは違う。

 沙波はシャープペンシルを持ち、第一志望の欄へ視線を落とした。
 大学名を書くことはまだできず、代わりに沙波は紙を裏返した。

 白い余白に、これまで調べたことを小さく並べていく。
 大学進学、専門学校、就職と、卒業後に考えられる道を思いつくまま書き並べてみる。

 大学へ行くなら、興味があるのは文学や社会について学べるところ。専門学校なら何を選ぶのかは、まだ分からない。就職も調べたが、今すぐ働きたいとは思っていない。
 そこまで書いてから、沙波はシャープペンシルを置いた。

 最後の一行には、

 ――今のところ、まだ決められない。

 書き終えても、以前なら覚えたはずの罪悪感は薄く、今は少し違う自分をそのまま眺められた。
 決められないのではなく、まだ決めたくない。
 今の自分が知らないことを、もう少し知ってから選びたい。
 少なくとも、誰かに埋めてもらった欄ではなかった。