夏にほどける



 瑠夏は、その夜もノートパソコンへ向かっていた。
 数日前まで何度書いても先へ進まなかった章が、今日は不思議なくらい素直に続いている。

 物語の中の少女は、誰かから正しい道を教えてもらうことを、少しずつやめ始めていた。
 大きな決断をしたわけではない。将来の夢を見つけたわけでも、家を飛び出したわけでもない。
 ただ、自分が飲みたいものを選び、読みたい本を手に取り、疲れた日には先に帰り、一人でいたい時には一人になった。

 その変化を書いているうちに、瑠夏は自分が当初考えていた物語の筋を、ほとんど捨てていることに気づいていた。
 最初は、もっと大きな出来事が必要だと思っていた。主人公が傷つき、何かを失い、それを乗り越えて人生を変える。新人賞へ出すのなら、そのくらい劇的な物語でなければ読んでもらえないのではないかとも考えた。
 今は、もっと小さなものを書きたい。誰にも褒められない選択を一つずつ重ねながら、昨日まで知らなかった自分を見つけていく少女の話を。

 瑠夏は手を止め、机の横へ置いたスマートフォンを見る。

《書いてて楽しかったですか》
《楽しかった》
《それなら、よかったです》

 何度読み返しても特別な言葉ではないのに、瑠夏には嬉しかった。
 上手いと言われたわけでも、賞を取れると励まされたわけでもない。ただ、書いていて楽しかったのならよかった、と言われただけだった。

 瑠夏はスマートフォンを伏せ、再び画面へ向き直る。

 物語の中の少女が、夕方の空へスマートフォンを向ける場面を書いた。彼女が残す写真は誰にも見せず、いいねの数も感想も必要としない。自分が綺麗だと思ったから、その日の空を残しておく。

 そこまで書いたところで、瑠夏は一度文章を読み返した。

 もっと書きたいと思った。誰かに正解を示すためではなく、この少女が明日何を選び、何を好きになり、どんな自分を見つけるのかを、自分自身がもう少し見ていたかった。

 瑠夏は最初に作った構成表を開き、仮につけていた題名を削除する。

 白くなった欄へカーソルだけが点滅していた。
 新しい題名は、まだ思いつかない。
 それでも今夜は、その空白を埋めなくてもいいと思えた。

 最後まで書いた時、自分がこの物語の中へ何を残したかったのか分かれば、その時に名前をつければよい。
 瑠夏はキーボードへ指を戻した。

 沙波が綺麗だと言った指先が、再び文字を生み出していく。
 ただ今夜は、久しぶりに小説を書くことが楽しかった。