夏にほどける

 数日後、沙波は一人で町へ出掛けた。
 目的は、以前から気になっていた小さな雑貨店である。
 クラスの友人から誘われたわけでも、母に頼まれた買い物でもない。SNSで評判になっていた店でもなく、瑠夏と歩いていた時に偶然見つけ、店先に並んでいたガラスの小物が気になっていた。

 その日の朝には、クラスのグループチャットへ、
《午後暇な人いる?》
 というメッセージが届いている。

 以前なら、ほかに予定がなければ参加していただろう。
 けれど今日は、《今日は用事あるから、また今度!》と返した。

 嘘ではなかった。自分一人で出掛けることも、誰にも邪魔されたくない予定も、沙波にとっては立派な用事だった。
 雑貨店では一時間近く棚を眺め、結局何も買わなかった。

 それでも楽しかった。誰かが何を見たいのか気にする必要がなく、自分が立ち止まりたい場所で好きなだけ立ち止まれる。そういう時間を心地よいと思う自分を、以前ほど変わっているとは感じなくなっていた。
 帰宅途中にスマートフォンが震え、画面には瑠夏の名前が表示されていた。

《今日、書けた》

 沙波は歩道の端へ寄り、すぐに返信する。

《どれくらい?》
《三千字くらい》
《すごい》
《昨日は二百字だったけど》

 少し考え、《昨日は昨日でしょう。今日は三千字書けたんだから、今日はそれでいいじゃないですか》と送った。

《それを沙波に言われる日が来るとは思わなかった》

 という一文だった。

《私も思ってませんでした》

 文字を打ちながら、自然と笑っていた。

《書いてて楽しかったですか》

 今度は、少し長く返信が来なかった。
 信号が一度変わり、沙波が家へ向かって再び歩き始めた頃になって、

《楽しかった》

 と届く。
 その四文字を見ただけで、沙波まで嬉しくなった。

《それなら、よかったです》

 送信してから、画面を閉じる。
 夕方の町はまだ明るく、舗道へ長く伸びた自分の影が、歩くたびに少しずつ形を変えていた。


 その夜、沙波は机へ向かい、好きなものを書き留めるノートを開いた。
 夏休みの初めには心許なかった頁も、今では随分と賑やかになっている。
 レモンスカッシュ、桃の紅茶、夏の空、自分で選んだ本、図書館の匂い、誰かと一緒に黙っている時間、帰りたくなった時に帰ること、知らないものを一度見に行ってみること、お母さんの卵焼き、雨上がりの道路――頁には、沙波が自分で拾ったものが並んでいた。

 通知の鳴らない時間、一人で歩く本屋、誰にも見せない空の写真。並べてみれば、人生を変えるほど大きなものは一つもなかった。
 大学の志望校は決まらず、将来なりたいものも見つかっていない。それでも少し前まで、「好きなものは何?」と尋ねられるだけで困っていた自分が、今ではこんなにも多くのものを知っている。

 沙波はペンを握り、新しい一行を書き加えようとして、手を止めた。
 今日嬉しかったこととして、瑠夏から「書けた」と連絡が来たことと、書いていて楽しかったと聞けたことを、どう書けばいいのか考えた。

 ――好きな人が、好きなことをしている時間。

 と書いた。

 そこまで書いてから、沙波の指が動かなくなった。

 好きな人。もちろん、瑠夏が好きな小説を書いている、という意味にも取れる。
 けれど「好きな人」と書いた瞬間、頭に浮かべていた「好き」は、小説へ向けたものだけではなかった。

 昼間、頬に張りついた髪を払った指先を思い出す。
 ほんの一瞬の仕草で、瑠夏自身はもう忘れているかもしれなかった。それなのに沙波は、指が近づいてきた瞬間も、慌てて謝った声も、風に揺れていた前髪も、細部まで鮮明に覚えている。

 あの指が綺麗だと思ったことまで。

 沙波は文字の上へ線を引こうとして、ペン先を紙へ触れさせた。
 けれど文字は消せず、瑠夏と会いたいと思う気持ちも、もう見ないふりはできなかった。

 名前を呼ばれると嬉しく、図書館へ行って彼がいなければ落胆する。書けないと聞けば心配になり、書けたと知れば自分のことのように喜んでいるうえ、誰にも見せていない小説を最初に読んでほしいと言われたことまで、何度も思い返してしまう。

 それを何と呼ぶのか、もう分かり始めていた。
 ただ、今すぐ「好き」と名づけてしまえば、そこから先まで決めなければならない気がして、少し怖かった。告白するべきなのか、付き合いたいと思わなければ好きとは言えないのか、相手にも同じ気持ちを求めるものなのかと考え始めれば、途端に息苦しくなる。
 そこまで一度に決めなくていいと思い直し、沙波は書いた文字を消さないままノートを閉じた。
 好きなのかもしれない――今夜は、そこまで分かれば十分だった。