夏にほどける

 喫茶店を出る頃には、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
 まだ帰りたくないと言ったのは、沙波の方だった。
 以前なら、瑠夏にも予定があるかもしれないと考え、「このあとどうしますか」と相手へ判断を預けていただろう。それでも今日は、自分から「もう少し歩きたいです」と言えた。
 瑠夏は腕時計へ一度目を落とし、「僕も歩こうかな」と答えた。

 二人で川沿いの遊歩道へ出る。
 日差しはまだ強く、舗装された道には昼間の熱が残っていたが、川の上を渡ってくる風だけは涼しい。部活動帰りらしい高校生の集団とすれ違い、犬を連れた老人を追い越しながら歩いているうちに、空の青にも少しずつ夕方の色が混じり始めた。

 喫茶店を出てから十分も歩けば、沙波の額には薄く汗が滲んでいた。
 風が吹くたびに髪が頬へ触れ、そのうち一筋が汗を含んだ肌へ張りつく。手で払おうかと思いながら、沙波が鞄の中のスマートフォンへ気を取られた時だった。

 不意に、頬の近くへ瑠夏の手が伸びてきた。
 細い指先が、肌へ張りついていた髪をそっと掬う。
 触れたのはほんの一瞬で、髪は風にさらわれるように頬から離れた。
 沙波は足を止めた。

「あ……ごめん」

 瑠夏も遅れて気づいたらしく、伸ばした手をすぐに引いた。

「髪、張りついてたから。勝手に触ってごめんね」
「い、いえ」

 自分でも分かるほど声が上擦った。頬に直接触れられたわけでもないのに、髪を払われたところだけが熱を持ったように感じられる。
 頬に直接触れられたわけではないのに、髪を払った指先の近さだけが、触れられた場所のように肌へ残った。
 瑠夏は少し気まずそうに視線を逸らし、川の方から吹いてきた風に前髪を揺らしている。
 沙波は先ほど書店で見ていた彼の手を思い出した。
 長く、細い指。キーボードを叩く時にも、本の頁をめくる時にも、瑠夏の手つきはどこか静かだった。

 ――綺麗な指だな。
 そう思った途端、今度は自分が何を考えているのかまで意識してしまい、沙波は慌てて前を向いた。

「行きましょうか」
「うん」

 歩き出しても、心臓だけが普段の歩調へ戻らない。
 瑠夏は何もなかったように隣を歩いている。
 その横顔を盗み見ることさえ気恥ずかしく、沙波は空へ逃げるように視線を上げた。
 青の底へ、薄い金色が溶け始めている。

「綺麗」

 呟いてからスマートフォンを取り出し、空へ向けた。

「写真?」
「はい。今日の空、好きです」

 何枚か撮り、画面を確認する。

「SNSに載せるの?」
「今日は載せません」
「そうなんだ」
「自分で見返したいから撮りました」

 以前なら、写真を撮ることと誰かへ見せることは、ほとんど一続きだった。
 友達と出掛ければ写真を載せ、綺麗な食べ物を見つければ画面の中へ残し、反応がつけば嬉しかった。
 今でも、それが嫌になったわけではない。
 友達と撮った写真を載せたい日もあるし、誰かに見せたい景色もある。
 けれど今日の空は、自分の中だけに置いておきたかった。

「瑠夏さんは撮らないんですか」
「今日はいいかな」
「小説に使えそうなのに」
「必要になったら思い出すよ」
「忘れたら?」

 瑠夏は空を見上げた。

「沙波に聞く」
「私も忘れてたらどうするんですか」
「二人とも忘れたなら、それはそれで仕方ないでしょう」

 沙波は笑った。

「瑠夏さんって、結構適当ですよね」
「そう?」
「もっと何でも考えてる人かと思ってました」
「考える時は考えるけど、コーヒーに砂糖を入れるかとか、今日の空を写真に残すかとか、全部に理由をつけてたら疲れるよ」
「それも、その時の気分?」
「たぶん」

 沙波はさっきの喫茶店を思い出した。
 ブラックコーヒーの日もあれば、砂糖とミルクを入れる日もある。カフェオレを飲みたい日も、ミルクティーを選ぶ日もある。
 昨日好きだったものを、今日も選ばなければならないわけではない。一度選んだものを、生涯好きでいなければ嘘になるわけでもない。
 そんな当たり前のことまで、自分はいつの間にか難しくしていたのかもしれない。

「そういえば、瑠夏さんが書いてる小説って、どんな話なんですか」
「それは秘密」
「少しくらい教えてくれてもいいでしょう」
「完成したら読んでもらうって約束したから、今は言わない」
「じゃあタイトルだけ」

 瑠夏は少し黙った。

「まだ決まってない」
「本当に?」
「仮題はあるけど、たぶん変えるよ。書いてるものが、最初に考えてた話とは変わってきたから」
「今書きたいものに合わせるんですね」
「そうなると思う」
「何を書きたいのかは、もう分かりました?」
「少しずつ」
「教えてくれない?」
「完成したものを最初に読んでほしいから」

 さらりと言われ、沙波の足が僅かに遅れた。

「……私が最初なんですか」

 瑠夏も歩調を緩める。

「うん」
「ご家族は?」
「見せないかな」
「大学の友達とか」
「たぶん見せない」
「どうして私には見せてくれるんですか」

 問いかけると、瑠夏はすぐには答えなかった。
 川面へ視線を落としたまま何歩か進み、少ししてからこちらを見る。

「沙波に読んでほしいから」

 それ以上の説明はなかったが、沙波には、その一言だけで十分だった。
 先ほど髪を払われた頬が、また熱を持ったような気がする。

 沙波は川の向こうへ顔を向けたものの、意識には瑠夏の指先と、自分の名前を呼ぶ声ばかりが残っていた。
 書き上げた小説を、最初に読んでほしいという言葉。どれも一つだけなら、特別な意味などないのかもしれない。
 それなのに、胸のあたりへ散らばっていたものが、少しずつ一つの形を作ろうとしている。
 その形に名前をつけることが、沙波にはまだ怖かった。