夏にほどける

 二人は本を買ったあと、駅前から少し離れた喫茶店へ入った。
 窓際の席に向かい合って座り、沙波はアイスティーを、瑠夏はコーヒーを注文する。
 運ばれてきたコーヒーを瑠夏がそのまま飲んでいるのを見て、沙波は以前どこかで、彼がミルクを二つ入れていたことを思い出した。

「今日はブラックなんですね」
「今日はね」
「ブラック派なのかと思ってました」
「そういうの、決めてないよ。砂糖とミルク入れる日もあるし、最初からカフェオレ頼むこともある。紅茶ならミルクティーにする時もあるし」
「その日の気分?」
「うん。今日はこれが飲みたかっただけ」

 沙波はストローの袋を指先で弄びながら黙った。

「どうしたの?」
「いえ。瑠夏さんらしいなと思って」
「何が?」
「今日はこれがいいから、これにするところ」
「飲み物くらい、そんなに考えなくてもいいでしょう」
「私には、それが難しかったんですよ」
「ああ、そうだった」

 瑠夏は思い出したように笑う。

「でも沙波、今日はアイスティーなんだ」
「はい」
「甘くする?」

 テーブルにはガムシロップとミルクが置かれている。
 沙波は少し考え、ガムシロップを一本取った。

「今日は甘い方がいいです」
「そっか」

 それ以上、瑠夏は何も言わない。沙波が何を選ぶのかを、いちいち見守る必要はないと思っているのだろう。
 それが少し寂しく、それ以上に嬉しかった。

「どこで止まってるんですか」
「小説?」
「はい。話が思いつかないとか?」
「そういうのとも少し違うかな。書き始めた時に書きたかったものと、今書きたいものが変わってきたんだ」
「途中で?」
「途中で」

 瑠夏はカップの縁へ指を掛けたまま、言葉を選ぶ。

「最初はもっと別の話だった。でも、今のまま続きを書くと、自分で嘘を書いてるような気がして」
「小説って、作り話ですよね」
「そうだね。でも、作り話を書くことと、自分が本当だと思えないものを書くことは、僕の中では少し違うんだと思う」

 瑠夏は窓の外へ目を向ける。

「登場人物がそう思ってないのに、作者の都合でそう思わせるとか。本当は別の方へ行きたがってるのに、最初に決めた筋書きへ戻すためだけに動かすとか。そういうところが出てくると、僕は急に書けなくなる」
「登場人物が勝手に動く、みたいな話ですか?」
「そう言う人もいるけど、僕は最初にその人をちゃんと見てなかっただけだと思ってる。書いてるうちに、この人はこんなこと言わないな、とか、こっちを選ぶ人じゃないなって分かってくるから」

 沙波は昨日まで眺めていた進路希望調査を思い出した。
 最初に決められた筋書き。大学へ進学して就職し、その先で誰かと結婚して家庭を持つ――母が差し出した道は、母自身が歩いて幸せだった人生から生まれたものであり、沙波を縛るために作られたものではない。
 ただ、その筋書きの中を歩く人物が、同じ幸福を望んでいるかどうかまでは、まだ誰にも分からない。

「だったら、書き直せばいいんじゃないですか」

 沙波が言うと、瑠夏は苦笑した。

「簡単に言うね」
「だって、瑠夏さんが私に言ったんでしょう。間違えたら、その時に考えればいいって」
「小説と人生は違うよ」
「でも、小説なら人生より書き直せるでしょう?」
「それを言われると弱いな」

 瑠夏は笑って、コーヒーを一口飲んだ。

「締切に間に合わなかったら、別の賞に出すことだってできますよね」
「それはできる。でも、僕は今回出したいんだ」
「どうして?」
「この夏に書いたものを、今出したいから」

 そこには迷いがなかった。

「じゃあ、書きたいんですね」

 瑠夏はすぐには答えなかった。カップの中を見つめていた目が少しだけ伏せられ、しばらくしてから静かに頷く。

「書きたいよ」
「それなら、書けない理由の方を考えた方がいいんじゃないですか」
「それが分からないから困ってるんだけど」
「賞に落ちるのが怖い?」
「怖い」
「同じ歳の人が受賞しているのを見て、自分には無理かもしれないと思う?」
「思うよ」
「書けない自分を見るのも嫌?」

 今度は返事まで少し時間が掛かった。

「……それは、かなり嫌かも」
「じゃあ、ちゃんと理由あるじゃないですか」

 瑠夏は目を瞬かせ、それから小さく笑った。

「沙波、ずいぶん言うようになったね」
「誰かさんが、すぐに答えをくれなかったので」
「僕のせい?」
「おかげ、と言っておきます」

 沙波も笑って、アイスティーを飲んだ。

「でも、小説は好きなんですよね」
「うん」
「賞を取れなかったら、好きじゃ駄目なんですか」
「そんなことはないよ」
「作家になれなかったら、今書いてるものは意味がなくなる?」
「それも違うと思う」
「だったら、賞を取りたい気持ちも、落ちるのが怖い気持ちも、書くのが好きなことも、全部一緒にあっていいんじゃないですか」

 言いながら、沙波は少し不思議な気持ちになった。
 少し前までの自分なら、相反する気持ちのどちらかを正しいものに決めようとしていただろう。
 大学へ行きたいのか行きたくないのか、友達といたいのか一人でいたいのか、自分は明るいのか暗いのかと、どちらか一方へ決めようとするほど分からなくなる。
 けれど、どちらも自分であってよいのだと知り始めている。

「前に瑠夏さん、趣味は理由がなくても好きでいていいって言ってましたよね」
「言ったね」
「自分にも言ってあげればいいのに」

 瑠夏はしばらく沙波を見つめていた。口元に浮かんだのは、いつもの人を安心させるような笑みではなく、少し照れたような、それでいて困ったような笑いだった。

「人に言うのと、自分でやるのは違うね」
「そういうものですか」
「たぶんね」

 沙波は何となく分かる気がした。
 他人の好きなものなら簡単に大切にできるのに、自分のことになると、途端に価値や理由や将来性を求めてしまう。

「私、瑠夏さんが書いてるところ、好きです」

 思ったことがそのまま口から出ると、瑠夏の目が僅かに見開かれた。

「書いてるところ?」
「図書館でパソコンに向かってる時。考えてる時はちょっと眉間に皺が寄るし、たまに全然動かなくなるし、それでも……好きなことをしてる人の顔だなって思うから」

 言い終えたところで、急に恥ずかしくなった。

「……今の、忘れてください」
「無理だと思う」
「じゃあ、なるべく思い出さないでください」
「それも難しいかな」

 瑠夏は笑ったあと、すぐには次の言葉を続けなかった。
 窓から入る夏の光がテーブルの端へ届き、コーヒーカップの影を長く落としている。

「ありがとう、沙波」

 ようやく返ってきた声は、普段より少し静かだった。
 沙波は瑠夏の顔をまともに見られず、氷の溶け始めたアイスティーへ視線を落とした。

「完成したら、ちゃんと読ませてくださいね」
「うん。約束する」

 たったそれだけの会話なのに、店を出てからもしばらく、沙波の耳には瑠夏の声が残っていた。