夏にほどける

 午後になると、沙波は駅前の書店へ出掛けた。
 誰かとの約束があるわけではなく、母から買い物を頼まれたわけでもない。ただ、先日図書館で偶然選んだ小説が思いのほか好きだったので、同じ作者の別の作品を読んでみたくなった。

 図書館で借りればお金は掛からない。それでも今回は、自分で見つけた一冊を手元へ置いておきたいという気持ちが勝った。
 書店の自動扉を抜けると、外の暑気が切り離され、紙とインクの匂いを含んだ冷たい空気が肌へ触れる。新刊台を眺め、文庫の棚を抜けて目的の作者を探していると、前作とはまるで印象の違う空色の表紙が目に入った。

 手に取って帯を読み、それから裏返してあらすじへ目を通す。
 これがいい、と自然に思えた。
 評判を調べるためにスマートフォンを出そうとも、誰かに面白いかと尋ねようとも思わない。前に読んだ作品が好きだったから、もう一冊読んでみたい。それだけの理由で本を買うことが、以前よりずっと気楽になっていた。

 レジへ向かおうとしたところで、棚の向こうから聞き覚えのある声がした。

「沙波?」

 振り向けば、文芸誌の並ぶ棚の前に瑠夏が立っていた。

「瑠夏さん」
「本、買いに来たの?」
「はい。この前図書館で借りた人の、別の作品が読みたくなって」

 沙波が手にした本を見せると、瑠夏は表紙へ視線を落とした。

「気に入ったんだね」
「思っていたより、ずっと好きでした」
「そっか」
「……それだけですか?」

 思わず尋ねると、瑠夏は不思議そうに目を瞬かせる。

「何か言うところだった?」
「前だったら、自分で選べたね、とか言ってくれたのに」
「ああ」

 納得したように笑ってから、瑠夏は沙波の抱えている本をもう一度見た。

「もう僕が言わなくても、沙波は自分で好きって言えてるでしょう」

 指摘されて、沙波は手元へ目を落とした。
 確かに今は、誰かから面白いと保証されるより先に、自分から「好き」と言っている。

「……そうですね」
「それに、その本を選んだのは沙波だから」
「はい。私が選びました」

 口にすると、思った以上に嬉しかった。

「瑠夏さんは何を見てたんですか」
「新人賞の結果が載ってる雑誌。応募する前に、時々読むんだ」
「今書いてる小説を出す賞?」
「僕のはまだ先だけどね。どういう作品が選ばれてるのか読んでおきたくて」
「勉強になります?」
「なる時もあるし、読まなきゃよかったと思う時もある」

 意外な返事に、沙波は瑠夏を見た。

「どうして?」
「同じ歳くらいの人が受賞してたり、ものすごく上手い作品を読んだりすると、自分は何をしてるんだろうって思う日もあるから」

 瑠夏は他人と自分を比べない人なのだと、どこかで思っていた。
 好きだから書く。未来のことは未来の自分にも考えてもらえばいい。そう話していた彼は、周囲の評価から少し離れたところで、自分の好きなものを守れる人に見えていた。

「瑠夏さんでも、そんなこと思うんですね」
「僕のこと、どういう人だと思ってるの」
「自分の好きなものが分かっていて、それをちゃんと選べる人」
「分かってても迷うよ。好きなものだからこそ、上手くできないと苦しくなることもあるし」

 瑠夏は手にしていた文芸誌を棚へ戻し、背表紙を揃えるように指先でそっと押した。
 その手を何気なく目で追い、沙波は初めて、瑠夏の指が思っていたより長いことに気づいた。
 細く、節ばったところの少ない指だった。いつもあの指でキーボードを叩き、まだ自分の知らない物語を書いているのだと思うと、どういうわけか目を逸らしにくい。

「どうしたの?」

 見ていたことに気づかれ、沙波は慌てて顔を上げた。

「何でもないです。それで……書くのが嫌になったりはしないんですか」
「それはないかな。ただ、最近はあんまり書けてない」

 今度は、「最近はあまり書けていない」という方に気を取られた。

「書けてないんですか?」
「うん。図書館へ行っても、パソコン開いただけで終わる日がある」
「締切、九月でしたよね」
「九月の頭」
「……間に合います?」
「それを考え始めると、余計に書けなくなるんだよね」

 困ったように笑う瑠夏を見ながら、沙波は手にした本を抱え直した。
 瑠夏が書けない。この夏に彼と知り合ってから、初めて聞く言葉だった。